彼女は毎朝、決まった動作で身支度を整える。朝食はミルクを入れたコーヒーと、パンをひと口。室内は驚くほど整然としている。忌まわしい記憶から逃れるように、彼女はその朝も、特に掃除すべきところの無い部屋を、簡単に掃除した。

人の気配のしない、出来上がったばかりのモデルルームのような一室だ。しかし生来生まれついての性質がそうさせるわけではない。更に今日は、特に殺風景な部屋だ。それもそのはず、必要最低限の荷物を残して、彼女はその他を既に別の場所へと移動している。

彼女が部屋の中をひとけのない空間に仕立てあげたのは、忌まわしい事故の直後からだった。何もせずに微睡んでいたソファ、お気に入りの壁時計、大学のレポートと戦うためのノート型コンピュータ、木のぬくもりに一目惚れしたテーブル。南側に面した大きな窓からは、陽光が差し込む。
雑然とした、人の気配だらけの一室。億劫がってまだ畳まれていない洗濯物、よれたソファのカバー、コンビニで貰ったお釣りの小銭がテレビラックの上に放り投げられている。愛すべき心休まる城。

目の前で死んだあの人にも、こういう場所があっただろう。彼女は自分に問いかける。あの人からそれを奪ったのは、自分ではないか。
泣きたい気持ちで、ある夜彼女は散らかっていた部屋を大掃除した。彼女は、心が安らぐ場所を自分に用意することに、違和感と罪悪感を持ってしまったのだ。

彼女は壁際に立てかけた大きなダンボールを一つ組み立て、残る家財を丁寧に梱包して箱に詰めていく。勿論、朝食に使った食器も丁寧に洗って、梱包して箱に詰めた。箱がいっぱいになったところでふたを閉め、ガムテープで留める。箱の上に油性マジックで『雑貨』とだけ投げやりに書いた。

何もなくなった部屋をぐるりと見渡す。彼女をずっと見守ってきた、たくさんのことを見届けてきた部屋だ。友達を招いて朝まで騒いだ日もあった。恋の予感に悶々として何も手につかない日もあった。眠れない夜が続いた夜、吐き通しでげっそりやつれる日々が続いた時も、この部屋はいつでも彼女を迎え入れてくれた。

ふと、右耳の耳たぶを指先でそっと撫でる。そこには血の色の宝石がはめ込まれたピアスが鎮座している。息を吐く。息を吸う。
今日中に、水もガスも電気も止まる部屋。残った荷物は業者が管理人と回収して、新居に運び入れてくれる。
彼女は泣きたい気持ちで、それでも今までよりずっと穏やかな気持ちで、バッグを手に部屋を出て、扉を閉めた。

*

「何故ここに空閑がいるのかね」

鬼怒田が、苛立ちを隠せない声で告げる。その視線の先には当然、遊真が立っている。呼び出される以外でこの部屋に入るのは初めてだな、と遊真はぼんやりと思う。その様子を見かねたのか、迅が穏やかな声音でフォローした。

「遊真は全部知っています」

ぴくりと指先を動かしたのは、城戸だ。鋭い眼光で遊真と、それから迅をひと睨みして、そしてかさついた唇を開く。

「……全部、とは」

迅の様子と遊真の瞳に映る感情を察して、城戸は全てを理解した上で、念を押すように問うた。その言葉に反応したのか、広報部門を受け持つ根付が、気が気じゃないといった風情でつばを飛ばす。

「ぜん、全部とはどういうことです!″約束″と違うでしょう!」

今度、これまでなす術なく、力なく、彼女を励ますことさえもできずに上の言う通りに事の次第を見つめてきた迅が、初めて反駁した。

「…あなた方は、俺も、あの子に甘えすぎた。……これはその結果です」

その言葉は、あの日遊真に謝罪を口にしたことへの解だったようにも思う。遊真はそっと耳を澄ませる。嘘の一つも取り逃さないよう、真っ直ぐに、城戸と鬼怒田、根付と林藤、それから忍田に視線を巡らせた。

「迅さんは、途中からこうなることがわかってたんだな」

遊真の唇に乗ったのは、思ったより静かで、穏やかな声だった。迅は隣に立つ遊真をちらとも見ずに、「ああ」とだけ返事をした。

「……彼女は記憶操作の対象だ」

林藤がタバコに火をつけて、彼もまた遊真の方を見ずに言う。

「……っ市民に知られてしまったら、流石にどうにもできませんからねえ」

根付が折りたたんだハンカチで額の汗を拭って、城戸の方をちらちらと伺った。

「……俺はあの子に、全部を背負う必要は無いんだって、言いたかったのに、言えませんでした」

独り言のように呟いた迅の声は、悲痛に響く。忍田が眼前で両手を組んで、息を吐いた。

「…彼女は、私達の愚かな判断の責任も負った」

この場に善人はいない。けれど、悪人もいなかった。遊真はもう、これきりにしようと思った。これ以上深入りすることは、彼女を傷つけることと等しい。それでなくとも彼女は癒えない傷を負って、全てを抱え込んだまま、全てを負ったまま、ボーダーから姿を消そうとしている。

「…………時間だ」

城戸が重い口を開いた。

もうまもなく、この場に彼女がやってくる。そうして、全ての罪を負ったまま、ボーダーに関する記憶を抹消されて、何者でもない彼女になる。
遊真は、左手の中のピアスの片方を握った。
ここにいる誰も、遊真のいる前で、嘘を一つも口にしなかった。それがあまりにも辛く感じて、遊真は唇を噛んで、俯いた。

*

開いた扉から、いつも通りの暗い瞳の彼女が室内へ入ってくる。全員の視線が注がれた彼女は、まるで本当の罪人のようだと遊真は思う。遠い星で、好奇の眼差しを注がれながら引っ張られていった捕虜の姿が重なった。

彼女の視線は変わらずにぼんやりと空に注がれている。真一文字に結ばれた唇。不意に彼女が俯いて、髪の毛がさらりと彼女の横顔を隠す。それを耳に掛けた細い指先。露わになった彼女の左耳に、片時も離せなかったはずの罪の象徴は存在しない。遊真は黒髪と耳のしろさのコントラストに一瞬めまいを覚えた。そうして、手の中のピアスをもう一度ぎゅっと握った。

遊真の前で、彼女は足を止める。顔を上げ、静かに遊真の赤い瞳を見つめて、彼女はゆっくりと目を細めて微笑んだ。その目尻がうっすら赤らんでいたから、遊真は思わずまた、その手に触れたい気持ちになった。

「ありがとう、……遊真」

それが、遊真の知る彼女からの、最後の言葉になった。




死んでしまった神様へ
6-2





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