「空閑、お別れだ」

なまえは言う。その表情は、遊真の記憶にない朗らかな表情だ。すっきりした面持ちなのに、今にも泣き出してしまいそうな不安定さを、穏やかを装った空気で隠して、彼女はそこに立つ。
お別れだというその言葉に嘘がなかったから、遊真は驚いて、思わず彼女の手首を掴んだ。

「何が起きるんだ」
「ボーダーを辞める」
「上のひとたちが許さないはずだ」
「...そこまで考えが及んでたなら話が早い」

なまえが抱えていたものが遊真に打ち明けられた日の翌日から一週間経った日から、彼女はボーダーを休んでいた。入り込みすぎたことを後悔する時もあったが、遊真はそれが彼女に必要だったはずだと考えた。他人にしてやれる事はそう多くないのだ。遊真はそれを実感として知っているから、内情に踏み入ったことを謝罪したことは無い。

「やめてどうするつもりだ」

なまえが瞳を瞬かせ、片眉を下げて口元だけで笑んで見せた。しかしその笑みは、遊真にはとても歪に映った。

休みから明けた日、彼女は本部内の、例の会議室に遊真を呼び出した。遊真の専用の通信端末に表示された『本部開発室』という素っ気ない羅列。システムによって自動的に登録されているその表示名に全く期待しなかったと言えば嘘になる。遊真は期待して、しかし確信して、その電話をとったのだった。

「ボーダーに存在していた記憶を失くして、生きていく」

自分は記憶操作の対象であるという確証を持って、彼女はいつも通りに視線を天井へと逃がした。そこには、戦闘と隣合う場所に身を置くことを躊躇ってしまったただの女の顔がある。楽天的とも言える色の眼光は遊真の記憶にないものだった。遊真はそのことに気付いて、そして気付いてしまった自分を憎たらしく思う。

「ボーダーからはなれたら、心がおだやかになるのか」

これは戦争である。戦争に身を投じる中で、心が壊れてしまう者もいる。それをPTSDと定義するとしたら、なまえはそれに該当する。つまりボーダーに引き止める理由がない。その事実はおそらく、遊真にだけ残酷だった。

大きな傷を負って、あとはもうじくじくと膿んでいくばかりだと思われた傷痕。そこに唯一直接触れた遊真が、焦燥感を押し殺して彼女を見上げる。

彼女は遊真の言葉に遠い眼差しを天井に巡らせて、何も言えず、手持ち無沙汰に指先で髪の毛を左耳に掛けた。

「なまえがおれを忘れる」
「……私の罪と、ここにいた証」

彼女が遊真の問いに答えられないまま、左耳を両手で隠した。指先が小さく動くのが、遊真からも見える。彼女の手のひらが何かを握って、遊真に差し出される。反射的に差し出した遊真の手のひらに収まったのは、小さな宝石がついたピアスだった。宝石は血の色を映したような真紅。

「空閑の目と同じ色」

そうして、はじめて、遊真の瞳を見つめながら、笑った。泣きそうに、穏やかに、全てを諦めたように、希望を懸命にかき集めるように。
遊真はその耳飾りを、ぎゅっと握った。金属が手のひらに刺さって、ちょっと痛かった。

「私は空閑の目が嫌いだった。あの時私の視界いっぱいに広がった色をしているのに、やさしい」

嫌いだという瞳と同じ色のピアスをずっと外さないでいた彼女の心を、遊真は想像する。
彼女がひた隠しにしていた孤独と罪悪、それを実感として知り、それ故に彼女に気づき、彼女の心に触れた遊真。

もしも出会いが違っていたら、と遊真は想像した。しかしそれもすぐに思い直す。彼女に何も起きず、屈託無く笑っていたら、恐らく遊真は彼女の存在を景色の一つとしてしか認識しなかったかもしれない。遊真が戦ってみたかった彼女は、まごう事なく、闇を抱えた彼女だった。そして彼女の闇は、遊真の抱える何かと噛み合ってしまった。

「なまえ、」

遊真がそっと、彼女の指先に手を伸ばした。彼女は振り払うことなく、まぶたを伏せて、遊真の体温を享受した。

「一度、抱きしめさせてくれ 」

彼女は笑った。

「もう、一度抱きしめてもらった」

彼女は遊真の指先の体温が惜しいとでも言うように、ゆっくりと指先を握る手に力を込める。遊真はあまりにも、あまりにも切なくなって、勢いに任せて繋いだ手を引っ張って、真正面から抱きしめた。 身長差のある体がいびつに、一つの影になった。遊真は彼女の胸元で大きく息を吸い込む。きっともう二度と触れ合えない人のかたちと匂い、 輪郭を小さな体に刻み込むように。不意に、泣きたい気持ちになった。彼女が遊真の背を、細い両腕で抱きしめたから。

「私は、空閑に甘えてしまったね」
「おれがなまえにしてやれることがあった。それでいい 」

彼女の腕に力が入る。応えるように、遊真も彼女の体をつよく抱きしめた。
遊真は励ましたくて、慰めたくて抱きしめたかった。けれど実際に慰められたのは遊真の方だったような気がする。

「空閑」
「遊真だ」

遊真が優しい色を浮かべた眼差しで顔をあげる。その後の動作は、とても自然だった。

そっと触れ合った二人の唇は、震えていた。これはきっと恋ではない。恋というものを、遊真は知らないでいる。彼女の真意だけが遊真の気がかりではあったが、それでも彼女を手放し難い。

「遊真」

離れた唇が小さく名前を復唱する。それがたまらなく悲しくて悔しくて、辛くて嬉しくて、遊真は彼女の名前を呼んでから、もう一度背伸びして彼女の唇に自らの唇を押し付けた。

「なまえ」

それは甘露を移し合うような口づけではなく、一瞬の体温を与え合うような口づけだった。

「…空閑に会えて、良かった」
「できるならずっと寄り添ってやりたかった」
「逃げる私を笑う?」
「なまえは逃げるわけじゃない」

離れてしまえばもう二度と会えない。そんな予感が遊真の胸に去来する。それでも遊真には、ほかにはもう彼女に与えてやれるものがない。そのことをよく知っていたから、遊真はもう一度微笑んで、そして彼女に見えないように拳を握って短く息を吐いてから、彼女から一歩、遠ざかった。



死んでしまった神様へ
6-1




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