「……いい匂いがする」
ふんふんと鼻を鳴らしながら、匂いに釣られてふらふらと足を進めた
先は、この時間にこんな匂いを纏うにふさわしく家庭科室だった。
放課後の学校で甘い匂いがするのだから、それは至って当然のことかもしれない。
ちょうど小腹も空いてるしな、と岩ちゃんを初めとする面々が周囲にいないことを、ぐるりと辺りを見回して確認した。
「ねえ、何作ってるの?」
開いてる窓から顔を出して、みんなが好きな笑顔で呼びかけたら、どこかで見たことのある顔の女の子達が及川さん及川さんと群がってくれる。
そうか、部活帰りや試合終わりに彼女たちが差し入れてくれるお菓子たちは、ここでこうやって作られていたのか。
「…部活中でしょう」
きゃあきゃあと集まる女の子たちの中、そこに響いた、低くも高くもない、静かな声に女の子たちは静まり返った。
そしてその声の主を振り向き、少しだけ眉尻を下げてバツの悪い表情で小さく肩をすくめる。
「すみませんでした」
ぞろぞろと群がってきた女の子たちが、ぞろぞろと戻っていく。
その中の一人が「先輩」と声をかけているのを聞いて、その声の主が2年生か3年生であることがわかった。
「そんな悲壮な顔をしなくていいから、出来あがってるものでも渡して戻って」
口ぶりはたいそう冷たかったが、口にした言葉の内容は優しい。
女の子たちの顔に一瞬で笑みが浮かび、そして手渡されたのはたくさんのマドレーヌ。透明のビニール袋に包まれて、カラフルなリボンで留められている。誰かにあげるためのラッピングじゃないのかな、とも思ったけど、そんなことは気にしないで笑って受け取る。
「こんなにたくさん、悪いよ」
「バレー部のみんなでどうぞ」
口先ばっかりの固辞に、彼女はこちらをちらりとも見ようとせずに間髪入れず返答した。その素っ気なさに、ありふれた女の子たちが口々にフォローを口にする。
「よく運動部の人が来るんですよ、でも、個人的にあげるわけじゃない時は、なるべくみんなで食べられる数をあげなさいって、私たちも先輩から言われてるんです」
複数の女子が口々にいうものだから、聖徳太子の気分でそれらを要約した。
「ふーん」
「部活に戻らなくていいの?」
やっぱりこっちを見ない横顔。メガネのフレームに邪魔されて視線がわからないけれど、どうやら目の前の本を見ているらしい。
俺の記憶にはないけど、俺にタメ口ってことは3年生だな。あっちは俺を知っているのも、こういう女の子たちに囲まれていれば当然かなと思う。それでなくとも俺は目立つのだ。
「先輩、来月に高校最後のコンクールなんです。だからメニューを考え中なんですよ」
「そっか、」
当然と言えば当然のことなのに、何故か俺は文化部には大会なんかほとんどないと漠然と決めつけていた。そのことに少し罪悪感を感じて、ちらりと本を見つめる横顔を窺う。綺麗に一つにまとめられた黒い髪の毛の先がゆらゆらしている。
「頑張ってね」
「…バレー部も」
思わず飛び出したエールは、自分で思うよりもずっと強く響いた。そのエールにようやく顔をあげたその口元が柔らかく弧を描いていたものだから、何故だか俺は急に恥ずかしくなった。
「及川くん、岩泉くんがこっちに来る」
「げ」
後ろを振り向けば、確かにこちらへ走ってくる人影がある。頭の中でジョーズのテーマが鳴り響いた。
「ごめん岩ちゃん、お菓子もらってた!すぐ戻る!」
ああ、なんでこんなに後ろ髪引かれてしまうんだろう。
「及川が邪魔して悪ぃな」
「邪魔って程でもないから大丈夫」
彼女が本をパタンと畳んで、それを手に持ったまま窓際まで寄ってくる。そして、俺の腕いっぱいに抱えられたマドレーヌの袋を指さした。白くて細くて、柔らかそうで、きちんと切りそろえられた爪が清潔な、少しだけ神経質そうな指先だった。
「それ、みんなで食べて」
「おう、サンキュな」
岩ちゃんは簡単に片手をあげて、気安い笑みを浮かべた。
彼女の手の中には、手の込んだおいしそうな料理の写真が写った本がある。
「コンクールいつだ?」
「来月」
「試食ならいくらでも協力する」
「バレー部なんて、何作ってもうまいしか言わないでしょ」
あまりにも気楽に話す二人になぜだか心臓のあたりがちくちく痛む。眼鏡の向こうの瞳が細められて、手入れされたつやつやの唇から、くすくすと笑いが零れる。
「ねえ、二人って知り合い?」
「同クラ」
岩ちゃんが素っ気なく答えてくれて、彼女が同意するように微笑んだ。
「……ふうん」
何かが気に食わないのに、その何かがなんなのかがわからない。軽いはずのマドレーヌがずっしり重く感じて、二人が話すのを見つめるばかりの俺は、一体なんだと言うのだろう。
「頑張って」
「おう」
「及川くんも」
叱られたあとの子供みたいに、最初とは打って変わって優しい声の彼女の表情を見上げる。彼女は返事のない俺を疑問に思ったのか、小さく首をかしげて、もう一度名前を呼んだ。
「及川くん」
「……うん、がんばる」
「さっさと戻るぞ」岩ちゃんが俺の背中を叩いて急かす。窓の奥からは、彼女の後ろから女の子たちが「頑張ってくださーい!」と声をかけて身を乗り出してくれる。
「半分よこせ」
「え」
「両手塞がってたら歩きづれぇだろうが」
岩ちゃんが当たり前のように手を差し出してくれる。視線を落とした先のマドレーヌは、お腹がすいていることを差し引いてもキラキラとして見えた。
「いや、いいよ。大丈夫」
俺も彼女も、最後の大会が始まる。
頑張れとエールを送りあった仲として、このマドレーヌは及川さんが責任をもってみんなに届けよう。
「……頑張れ」
小さく呟いて、そっと少しずつ離れつつある家庭科室を振り返った。まだ開け放された窓から、薄汚れたカーテンが揺れるのが見える。
燦燦
#Twitterアンケにて「なんでもいいから書け」とのことだったので唐突に及川