「はやく」

ここは天蓋付きの真っ白でふわふわのベッドの上ではない。どこにでもあるマンションの、どこにでもある間取りの一室だ。焦げ茶色の木製のベッド、白いシーツ。三上はそこに、膝を抱えて座っている。艶っぽく呼びかけてはみたものの、実際の光景との落差にため息をひとつ。か細く震えた声は一瞬で夏の夜の蒸し暑さに溶けて消えた。

「待って」

呼びかけられたなまえはシャワーを浴びて出てきたばかりの出で立ちで部屋に入った。白いタンクトップ、黒いジャージ素材のぴったりとしたパンツを身につけ、肩にかけたタオルで濡れた髪を乱暴に拭きながら素足を進める。
彼女のつま先がベッドに近づく度、三上の心臓は弾けて粉々になってしまいそうになった。しかし彼女はタオル越しに髪の毛をかき混ぜながら、木製のローテーブルの上に放ってあった通信端末を手に取った。

「……ねえ」
「いい子だから待ってて」

微笑みをひとつ投げてやり、彼女は端末の画面の上で視線をすべらせた後、文字を打ち込み始めた。
三上は、彼女の職責が二人の時間を少しずつ奪ってしまうのはもう慣れっこで、そっとベッドから降りる。そして彼女が家に帰るなり「肩が凝る」と脱ぎ捨てた紺色のスーツジャケットを拾い上げ、丁寧にハンガーにぶら下げた。

「歌歩」
「はい」

反射的に彼女を振り向いた三上は、突然の呼びかけに笑顔を隠すすべもなく、満面の笑みを浮かべている。彼女は一瞬驚いたように固まって、その後形のいい唇の中で密やかに笑った。

「明日会えなくなった」

まるで「今日はいい天気だったね」とでも言ったような朗らかさに、三上は一瞬何を言われたのかわからなかった。
なまえは晴れやかな笑顔を浮かべて、通信端末をテーブルの上に置くと、放り投げた黒い革製のバッグから普段使いの手帳を引っ張り出した。ぱらぱらとページを捲る音が三上の耳に届き、三上はとうとう眉を八の字にして、先程吊るした彼女のジャケットの袖に何の気なしに触れた。

「お仕事ですか?」
「うん。遠征艇の改修依頼がきた」

三上は遠征艇の改修を依頼できる人間達の顔を一つずつ頭に思い浮かべる。その中には当然、自分が所属する部隊も含まれている。
彼女はと言えば、三上の切なさに気付く様子もなくテーブルの前に胡座をかいて、化粧水のボトルと乳液のボトルを並べた。

「今日は、」
「うん?」
「今日は本部に行ったりしないでしょう?」

前科持ちの彼女に、三上は紺色のジャケットの袖のぎゅっと握る。テーブルの上に置いた鏡越しに、彼女が背後に立ちすくむ三上の姿を視界に捉えた。

「うん」

三上はその返答に、ほんの少しだけ安堵して袖から手を離した。ゆっくりとベッドに戻り、再び膝を抱える。

過去数度、彼女は仕事を理由に当日の約束を反故にした。翌日の約束を反故にしたことも、一週間後の約束を反故にしたこともある。つまり、彼女の中での優先順位は一番に仕事、そして恐らく二番目か三番目にようやく、三上の名前が出てくる。三上はそう信じている。
その度に彼女は埋め合わせだと言って、三上が好きなケーキ屋で、二人では食べきれないホールケーキを買ってきたり、三上が行きたいなと口にしたことがある遊園地へ連れて行ったりと機嫌をとってくれる。それだけが、三上が愛されていると実感できる場面でもある。

「来週、ドライブでも行こうか」

この日も彼女は普段通りに、何でもないような態度でデートに誘った。
三上の頭をめぐるのは、例えば買ったばかりの夏のワンピースを身に着けて、手を繋いで海辺を歩く二人の姿だ。きっと彼女は三上がプレゼントした白いシャツを着てくれる。青いジーンズにサンダルを履いて、眩しい陽光を遮るサングラスを掛けて、きっと助手席に座る三上に柔らかい微笑を向けてくれるだろう。

「歌歩?」

それでも三上は膝を抱えたまま、海に行きたいという希望を口には出さない。彼女に見られないのをいいことに、そっと舌を出して抗議した。

「どうしたの、歌歩?」
「...来週のことなんて」

もしかしたらまた仕事が三上から彼女を奪うかもしれない。三上はそれを理解している。

「先のことなんていいから、いまの私を見てください」

ゆっくりと体を動かしてベッドの上に座る三上に向き合った彼女は、困った顔をしてそっと両手を広げた。

「おいで」

弾かれたようにベッドを降りた三上が、彼女の胸に飛び込んだ。彼女の胸の中で目を閉じた三上はいつもそうしているように、思い出す。まるで儀式のように、二人の出会いについて、ほんの少し考察する。



彼女と三上が出会ったのは、雨の日の夜のことだった。
三上はその日ランク戦の実況が終わった後、作戦室で他の隊の戦績をまとめていた。時計を見上げればちょうど二十一時を目前にしていて、三上は翌日の時間割を思い浮かべながら急いで帰り支度をした。
三上が作戦室を出て最初に聞いたのは、壁と嵌め殺しの窓を叩く雨の音だった。エントランスに向かいながらバッグの中を漁ったが、いつも入れているはずの折りたたみ傘がないことに気づいた。作戦室になかっただろうか、三上が戻ろうかどうか逡巡している所に「送っていこうか」と声をかけてきたのが、現在三上を抱きしめる彼女だった。

「ごめんね、普段は車なんだけど」

彼女のことは知っていたから、三上は心から申し訳ないという面持ちで「お願いしてもいいですか」と答えた。

「すみません。……遠回りになりませんか?」
「大丈夫だから気にしないで……三上さん、ごめんね。反対側に移動して」

雨粒がビニール傘を叩く音が響く。背後から近づいてくる自動車のヘッドライトの灯りに、彼女は普段コンピューターとばかり逢瀬をする指先で三上の肩を引き寄せた。ガードレールのないコンクリートが暗く濡れている。一瞬体勢を崩した三上は、彼女の胸に抱かれるような形になった。そして彼女の腰から下は、自動車のタイヤに弾かれた水しぶきでぐっしょりと濡れた。



三上はそれらすべてを、まるで昨日のことのように思い出すことができる。背後から雨の中にも関わらずスピードを出して家路を急ぐ自動車から、自分をかばってくれた彼女の体の柔らかさを、細く温かい指先を、腰から下を水しぶきで濡らして尚「三上さんは濡れなかった?」と三上を気遣った微笑みを。

遠征艇開発室に所属するエンジニアである彼女とは、さほどの関わりがある訳では無い。そんな二人が実は交際してるなんて知ったら、周囲はどう感じるだろう。
三上は彼女の心臓の音を聞きながら、幼子のように彼女の背中に腕を回して胸元にさらに擦り寄った。

「さみしい?」
「……少しだけ」

三上は度々、二人の関係を誰かに話してしまいたい衝動に駆られる。彼女が頻繁に話をしているエンジニアや、気軽に改修依頼をするA級隊員に、彼女は自分のものだと叫びたい気持ちになる。
それでも拳を握って我慢するのは、彼女がそれを良しとしないためだ。自分の職責に誇りを持つ彼女は、公私混同を嫌う。だから三上は耐える。

「好きだよ」
「……はい、わたしも」

二人が行き着くのはどこなのか、三上にはわからない。もしかしたら彼女は知っているのかもしれない。それでも今、彼女は三上を抱きしめて好きだという。三上はそれでいいと思っている。
あの日出会ったことは必然だったのだと、三上はそればかりを信じている。

「そばにいてくださいね」
「...歌歩が望む限り」

そっと顔を上げた三上の視界には、片眉を下げる彼女の顔が映り込んだ。三上は彼女の顎の下から、ねだるように唇を少しだけ突き出して、目を閉じた。

「好きです」

一度触れて離れた唇に切実な色を載せたら、真っ暗な視界の向こうで彼女が密やかに微笑んだ。三上は心中で「うそばっかり」と呟いて、彼女の手をそっと握る。




夜の融解



友人の百合夢アンソロに提出しようとしてた話の一つ。そのため同じ設定です。
百合夢アンソロ掲載作品の公開予定はありません。





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