「なまえ」

本部内の喫煙室で、タバコをくわえるなまえの、寄りかかるガラスを軽く二回叩いて名前を呼んだ。遊真はそっと喫煙室に入って、今にも逃げ出しそうな彼女の退路を塞いで、嗅ぎなれないタバコの臭さに一瞬だけ息を止め、そっと彼女の指先に触れた。指先は冷えきっている。
なまえが一度心底厭そうな表情を浮かべたから、遊真はその指先を解放した。

*

屋上で太刀川を解放した遊真は、ようやく色々なことを静かに考えた。

濁った、暗い眼差しが遊真の脳裏によぎる。それと同時に、戦争の記憶が揺さぶられる。あの時はまだ親父がいたんだ、とぼんやり思う。
その時になって、遊真は唐突に気付いた。なまえの眼差しや立ち居振る舞いを思い浮かべて思い出すのは、この星に来る前の、死と隣合わせの、正確には殺された場所の、過去のことばかりだ。

「……そうか」

ぽつりと漏らした。自分自身を信じられない口ぶりで、確かめるように、指先を顎に添えた。

なまえの陰った眼差しは、ボーダーの誰とも重ならないのだ。ベイルアウトの庇護を持ち、故に少しずつ死への恐怖に鈍くなるボーダー隊員の、半ば楽観的とも思える空気と瞳の力強さ。それは、なまえが持っていないものだ。
目の前で人を失ったことが影を落としているのだと、そう考えていた脳裏に、レプリカが尋ねる。「本当にそれだけか?」。答えは否だった。

なまえは、過剰すぎる。

目の前で人を亡くした。自分が守れなかったから。実際になまえはその瞬間、「私が」と口にしていたと聞いた。
ボーダーを辞めるという選択肢も確かにあったはずだった。それを本人は、食べていくためにちょうどよかったと言った。確かにそこには嘘はなかった。それでも拭いきれない違和感。技術を身につけているのなら、ボーダーよりいい仕事はいくらでもあったはずだ。生命の危険もなく、他人の命を背負わなくてもいい仕事。それでも なまえはボーダーに残っている。

人と目を合わさず、暗い眼差しで、人との接触を極力避けながら、ぼんやりと上の方に 視線を逃す様がはっきりと記憶に残る。
そうまでして なまえがボーダーに残り続けるのは、なぜだ。

*

「おれは触れるべきじゃないことに触れてる」

端的な言葉に贖罪の気持ちを込めて、遊真は懺悔する口ぶりでなまえをまっすぐに見つめる。彼女は一瞬だけ、きちんと遊真の赤い瞳を見つめた。それからいつも通り、忌まわしそうに目を細めてから、遊真から視線を逸らした。

「…………待ってたのかもしれない」

普段と同じの暗い横顔から放たれた彼女の言葉に、遊真がちょっとびっくりして目を見開く。彼女はそんなことには気付かない素振りで、浅い息を吐いて、それから左手首の腕時計を見下ろした。
腕時計は、隊服とはまるで印象の違うゴツゴツした黒いもので、そして年季を感じさせるような傷だらけのものだった。

「時間があるならついてきて」

遊真は無言で頷く。そして、灰皿に吸い指しのタバコを潰したなまえが、遊真の体に触れないよう避けながら、喫煙室を出た。
彼女の背後を歩きながら、遊真はその背中を、腕を、指先を、盗むように伺った。薄い肩、細い腰。戦闘員をリタイアしても尚、恐らく習慣のように鍛えているであろう、均質な筋肉のついた、柔らかい女性の体つきを。

後ろからは彼女の表情はわからない。けれど遊真は、彼女の表情をはっきりと脳裏に思い浮かべることができた。きっと苦悩を湛えた眼差しで、それでも前を向いているのだろうと思う。遊真の記憶の中の、戦場を共にした仲間たちと重ね合わせれば、きっとそうであるはずだ。
遊真は一度、右手の拳をぎゅっと握った。
そうしないと、今にも彼女の手に触れてしまいそうだった。

「入って」

なまえに導かれたのは、ボーダー本部の中でも、ほとんど人が寄り付かないようなひっそりとした場所にある一室だ。扉のプレートには『会議室』と書かれている。後ろを振り返ったなまえが、遊真の疑問に聡く気付いて、首からぶら下げたエンジニアのIDカードを扉横のセンサーにかざした。

「エンジニアに与えられた会議室の一つ。場所が不便だから殆ど使われない」

遊真が彼女に続いてそっと室内に足を踏み入れた。埃っぽい匂いにカビ臭さが混じって、遊真は少しだけ顔をしかめた。
なまえが室内の電気を点ける。中央の白い広い机と、それを囲む六脚の椅子。彼女は扉近くの椅子の一つの座面を二回はたいて、そこに腰を下ろした。

「座って」
「ありがとう」

色んな気持ちを載せた言葉だ。遊真には、他の言葉は思いつかなかった。
遊真の感謝の言葉に、彼女は複雑な表情を浮かべて、そして遊真と目が合うと同時にいつも通り、暗く淀んだ眼差しを空中へ逃がした。




死んでしまった神様へ
4-1





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