「あ、風間くん」

ボーダー施設内はどこもかしこも知った顔がいて、恐らく誰もいない場所はないんじゃないかとすら思う。妙にやるせない気分で自販機でカフェオレを買って、プルタブを開けずぶらぶらと歩いていた俺の背後から、落ち着いた声が響いた。

「お疲れ様です」
「お疲れ様。休憩中?」

足を止めて振り返った先には、予想通りの女性が控えめに微笑んでいる。手元にぶら下がるカフェオレを見下ろしたなまえさんが、肩につくあたりで切りそろえられた黒髪の毛先を払って、首を傾げた。

「はい」

なまえさんはエンジニアだ。遠征艇の開発室に所属している。俺達の無理な注文に日夜思考錯誤して、時々鬼怒田さんに助けを求める。普段ほとんど研究室から出てこないこの人が、今までに見たことのない出で立ちで目の前に立つ。
不思議に思って腕を組んだら、#nane#さんは呆気なくその疑問に気付き「私服だからね」と口にした。

「#nane#さん、スカート履くんですね」
「時々ね」

#nane#さんは俺の大学の先輩に当たる。二つ年上で、前に提出レポートであと5行分の文字数が足りないとぼやいた時、簡単そうに助け舟を出してくれた。

「今日はこれから勤務ですか」
「うん。風間くんは?」
「この後防衛任務が入ってます」

カフェオレの缶はどんどん冷めていく。無性にひとりになりたいのに、何故だか足の裏に接着剤がついているように、足が動かない。

「引き留めてごめんね」
「いえ」

#nane#さんは大人らしくその気配に気づいたのか、呆気なく片手を上げて俺を解放する仕草をして見せた。
俺もそれに倣って片手を上げようとしたが、腕がうまく動かない。それどころかやはり足も動かず、まるでプログラム途中のロボットのように固まった。

「……」
「風間くん?」
「いえ、すみません」
「んー、...…遠征艇覗いていく?」

視線を僅かに泳がせながらなまえさんを見れば、なまえさんは努めて穏やかに微笑んでいる。瞬間に気を使わせてしまったということに気付いて、自分らしくもない態度を心中で叱咤した。

「いえ、また今度お願いします」

なまえさんは忙しい人だ。以前雷蔵が言っていた言葉を思い出してみる。遠征艇開発室のチーフ、時々本部に寝泊りをすることもある。鬼怒田さんからの信頼も篤く、戦闘員とは距離を置いて接する分別ある大人。

「なまえさん、」

そこまで思い出して、またふつふつとやるせない気持ちが湧き上がる。

相手を気遣って挨拶もそこそこに、不快にならない範囲で解放すること、何かを逡巡して背を向けられない人間に、時間を潰す手段をさらりと与えること。そのどれも、たった二つしか違わないというのに俺が持っておらず彼女が持ち合わせていることに歯がゆさを覚えた。

「どうしたの?」
「...いえ、日中外出するなんて、珍しいですね」

とりあえず話題を変えようと口にした俺の視線は、彼女が身につけている黒い薄いブラウスと、黒い膝丈のスカートに注がれる。薄いブラウスの向こうで、少し胸が膨らんで、彼女は小さく息を吐いた。

「お墓参りにね」

困ったような声だった。それでも見上げた先の彼女の表情は変わらずに穏やかなままで、再び二歳の壁を目の当たりにした。

「...すみません」
「ううん」

彼女は俺の謝罪にそっと微笑んで続ける。

「本当は今日休みだったんだけど、なんだか居てもたってもいられなくって」

照れるそぶりで後ろ頭の黒髪を撫で付けたなまえさんに、彼女の心の内側に触れたような心地になって、何故だか妙に落ち着いた。

「...俺は、一人になりたくてここまで」

お互い様にもならないだろうと口にしたが、なまえさんは生真面目な眼差しで受入れてくれた。

「ここで一人になるのは難しいね」
「そうですね」

カフェオレの缶に触れたら、それは既に生ぬるくなっている。

「でも、なまえさんに会えて良かったです」

紛れもない本心だった。
黒い衣服に身を包んで、傷をそっと心の奥にしまい込んでいるこの人の穏やかな表情に、心のさざめきが落ち着いた。

なまえさんはそっとまぶたを伏せた。その後に、意思の強い眼差しを隠して、口元だけで微笑んだ。

「風間くんは、いつも率直」
「そうですか」
「褒めてるのよ」

黒いストッキングに包まれたきれいな形の足が、そっと交差する。なんと答えるべきか、何をしたらいいのか、一瞬でなぜだか混乱して視線を上の方にさ迷わせた。

「なまえさん」
「ん?」
「…やっぱり、遠征艇見ていってもいいですか」

少し高いところにあるなまえさんの目をようやく捉えて、口にする。彼女は細く長い息を吐いてから、目を細めた。

「風間くんは、もう少し周りに甘えるべきね」
「いえ、俺は、」
「黙らっしゃい。おいで」

カツカツと響く靴の音。よく転ばないなと感心する高さのヒールの靴を自在に操る黒ずくめのなまえさんが、髪を揺らして俺に背を向ける。

「なまえさんは、甘えてますか」
「……甘えてる」
「どうやって」
「今もね」

ちらりと振り返ったなまえさんが少しはにかんでいたから、思わずらしくもなく俯いて、カフェオレの缶のプルタブを引っ掻いた。

「甘え方から教えてあげようか」

プシュッと開いた遠征艇開発室の扉。足を止めたなまえさんが、俺の頬に指先を伸ばしてそっとつまんで引っ張る。

「……」
「ねえ、風間くん?」

そっと首をかしげたなまえさんが、俺の前髪をつまんで、少しだけ泣きそうな顔をした。

「お墓参り、行ってよかった」
「……疲れた顔をしていたように見えましたが」
「うん、訂正しようか。……お墓参りの後に会ったのが、風間くんでよかった」

真意はつかめないまま、なまえさんが恭しく開発室へと招き入れる仕草で微笑む。

この黒ずくめの人を、抱きしめてしまえたらいいのに。
唐突に脳裏に浮かんだそれに、カフェオレの缶がいとも容易く床に落ちて、高い音を響かせる。



一寸先は闇






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