手が届かないことくらいわかっていた。わかっていたのに、どうしてこの指は勝手に彼を求めてしまったのだろう。

「ん、ぅ……」
「…辛くないか」

あぐらをかいた彼の上に足を広げて対面し、ぎゅうと抱きしめた鼻先に触れたほんの少しの汗の匂い。ベージュのベッドカバーに立てた膝はふるふると震えて、あともう少し理性が飛んだら彼に体重をかけてしまいそうだ。

胸元に抱え込まれた体勢の風間さんがくぐもった息遣いで顔を上げる。ぶつかった視線には、甘さは感じない。鋭利な刃物を首筋にひたりと当てられたような気分で、首を絞められたように喉の奥からひゅうっと音がした。

「は、い」
「そうか」

指先は彼の汗ばんだ背中を捕らえている。スマートに見えた小柄な体は、思ったよりもがっしりとした男の身体だった。爪を立てないよう、指の腹で背中に力を入れる。弾力のある肌に泣きたい気持ちになって、それを堪えれば心臓が握り潰されるようにぎゅうと痛くなった。

「ぁ、う」

視界に揺れていたはずの、ワックスで少しベタついた黒髪の毛先。それがあっという間に真っ白い天井に代わり、彼が腰を強く打ち付ける。

「んんっ……!」

唇を噛んで声を殺すのは、せめてもの配慮だった。彼の耳に、脳裏に私のはしたない声が残るなんて、余りにも申し訳ないことだ。ベッドは思ったより頑丈で、大きく揺れて音が響く事は無い。とても静かなセックスだと思う。私の記憶の中では。

彼はといえば私の膝頭を掴んで開いて、不規則なのか規則的なのかもわからない律動を繰り返す。
一瞬、どんな顔をして私を見下ろしているのか見てみたくなったが、もう一度心臓が痛んだら、今度は死んでしまいそうだ。固く目を瞑って、指先は所在無くグシャグシャになった毛布のどこかを握った。

そもそも、私たちの間には何も無かった。特別な接点もない。ボーダーであるという共通点があっただけ。
たまたま今日は21歳組が飲んでいて、私は諏訪くんに呼び出された。私が「現着しました〜」と個室の襖を開けて敬礼した時、既にみんな気持ちよさそうな顔をしていて、テーブルにある残り少しのボトル数本を見て、私は残飯処理に呼ばれたんだなと理解した。

そしてそれが何故こうなったのか、実のところ私にもよくわからない。制御できない指先が風間さんの指先を捕らえてしまった時、風間さんはたぶん驚いた顔をしていた。恐らく振り払われなかった。だから今、私はここにいる。

「っ、……!」

もう何度目かわからないくらいに突かれて、その度にどんどんと逃げ場のない端っこに追い詰められていた私の体は、とうとうブレーカーが落ちたようにぶつりと弛緩した。

「……大丈夫か」

荒い息遣いが額の髪を揺らすのが、遠い遠い世界の出来事のようだ。薄ら瞼を開けて様子を盗み見れば、彼は私の体の上に倒れ込んで息遣いを整えているようだった。何重も膜が張っているように、局部麻酔をかけられているように、彼の肌の感触が伝わってこない。彼の皮膚に真実触れられるのは、どうやら勝手なことをする指先だけのようだ。

「だいじょうぶ、です」
「そうか」

沈黙するだろうとは予測していたから、特に気まずさは感じない。風間さんはそっと体を起こすとぬるりと私の体からコンドームに包まれた陰茎を抜き取り、ティッシュを片手にコンドームを取り外す作業にかかる。途端、独特の青臭い匂いとほんの僅かなゴム臭が混ざって、吐きたい気分になった。

彼が後始末するのをきっかけに、私も身を起こす。ベッドのスプリングが小さく鳴いた。バラバラの下着を毛布の中から掘り起こして身に付ける。恥じらいはなかった。どうせこれが最初で最後なのだから。

私がすべての衣服を身に付け終える頃、彼は気楽なスウェット姿で500mlペットボトルで水を飲んでいた。なんと声をかけようか迷って、家に入るなり放り投げた鞄を拾う。

「…飲んでいけ」

飲みかけのペットボトルを差し出され、一度曖昧に頷いて受け取った。喉を滑り落ちていく清冽な冷たさに、涙が出そうだ。

「……じゃあ、お邪魔しました」

残った水の半分を一気に飲み下して、とりあえず彼にペットボトルを返す。
ボーダー内でこんなよくわからない関係を持ってしまったことに、大きな罪悪感を持った。赤い鋭い瞳を見る勇気が出なくて、俯いて口元だけで笑ってみせる。彼は「ああ」とだけ言って、玄関まで私のあとをついてきた。

扉の鍵に指をかける。指先が名残惜しそうに震えて、犬歯で噛みちぎりたい衝動に襲われる。

ふと、今夜のことを謝るべきか否か逡巡した。しかし私が悪かったのだろうか。私だけが悪かったのだろうか。この思考回路はどうしても責任を転嫁したがって、仕方が無いから靴を履いたつま先を風間さんに向け、会釈だけに留めた。

*

「よぉ、昨日はちゃんと帰れたか?」
「…諏訪くんは帰れたみたいだね」

バツの悪そうな表情を浮かべてタバコのフィルターを噛んだ諏訪くんが、後ろ手に頭を掻きながらなにやら呻く。

「記憶にねーけど帰れたみてぇだ」
「帰巣本能ってやつですかね、まあ帰れたんならよかった」

「お前は?」ただの挨拶のように掛けられた問い。「ちゃんと帰りましたよ」嘘はついていない。声が上擦りそうになったけど、親指の腹に人差し指で爪を立て、なんとか凌いだ。

ふと、脳裏に風間さんの声が再生される。思えばずいぶんと優しい声音で、気遣う言葉を投げかけてくれていたように思う。記憶がぼんやりしてはいるけど、彼は私が想像するより大人で、紳士だったのだろう。ハタチになったばかりの私には、到底真似のできない芸当だ。

そっとまぶたを伏せる。
記憶の中の風間さんに暴れそうな指先を封じて、今すぐに泣き出したい気持ちを抑えこんで、そうしてゆっくり顔を上げて、諏訪くんに微笑んだ。

この指が求めるのは、どうやら風間さんだけらしい。一瞬でも錯覚させてくれた風間さんに、これ以上を望んではいけない。そうわかっていても尚、指先は風間さんの素肌を思い出してはしくしくと泣き始めるのだ。



指に鎖






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