「黒尾くん」
 机に頬杖をついて窓の外を見下ろしていた休憩時間、芯のはっきりとした声に弾かれるようにして顔を上げたら、そこには少し困った顔のなまえがいた。
「どうした?」
 生徒会に所属する、大人しい風貌のなまえとは中学から一緒で、今は隣のクラスに在籍している。ぼんやりと視界に収める彼女の制服姿に、見慣れているはずなのになんとなく眩しくなって目を細める。
 セーラーにリボン、短すぎないスカートのプリーツ。それどれもが受験用の制服図鑑に掲載されるようなきちんとした形だったものだから、らしさに思わず笑みがこぼれた。
「英和辞書貸して欲しいの」
 きちんとした制服姿の彼女は、中学の頃からきちんとしていた。いつだったか昇降口を出て校門に向かう背中を、部室に行く道すがらに見送ったことがある。彼女はぴかぴかのローファー、ふくらはぎにぴったりと沿うハイソックスに、整ったプリーツを揺らしていた。
「珍しいな」
 現在生徒会副会長を務めている彼女の、体育館での凛とした生徒会立候補演説を思い出しながら椅子を立つ。英和辞書ならロッカーに入れっぱなしのはずだ。
「昨日課題やるのに持って帰って、うっかり忘れてきちゃったんだ」
 真面目な彼女の人間味あふれる返事に何故だか気分が良くなって、「そーかいそーかい」と軽口を叩きながらロッカーを開ける。
 中に押し込んだいつ使ったかわからないタオルをかき分けて取り出した英和辞書を、ぽこんと彼女の頭に乗せた。
「俺午後使うから持ってきて」
「うん。ありがとう」
 真面目な彼女にもオシャレゴコロはあるらしい。らしい、というのはつまり、英和辞書で軽く叩いた頭には、複雑に編み込まれた黒髪がつやつやとしていたからだ。
 校則をきちんと守り、優秀で真面目な同級生。それが偽らざる彼女への評価だ。 それでも彼女は彼女なりに、校則の範囲内でおしゃれを楽しんでいるようだ。
「……黒尾くん」
「んー?」
「全国大会、頑張って」
 真面目なだけではないらしい彼女の片鱗に意識が囚われた一瞬、反応が遅れて彼女が何を言ったのか、反芻する。
 英和辞書を両手に抱えたなまえが、はっきりと言った言葉。まだ全国大会に行けるとは決まっていない。決まっていないのに、まるで彼女の中では全国大会に出場するのが決まっているようにはっきりと、そう口にした。
「気が早いな」
「バレー部の予算頑張ったんだから、行ってもらわないと困る」
 いたずらな色を浮かべて笑う彼女に愉快な気持ちになって、「贔屓はよくないでしょ」と釣られて笑う。 彼女は笑みを絶やさないまま、もう一度、「全国に応援に行くの、楽しみにしてる」と念を押した。面倒な学校行事の中でも耳に残る、中学時代から変わらないあの凛と響く声だった。
「頑張るよ」
 信じる響きの彼女の声に、自然と背筋を伸ばす。その返答に満足したのか、彼女は息を吐いて目を伏せた。弧を描いた唇は、淡く色付いている。そこに思わず目を奪われた。
「教室戻るね、また後で」
「おう」
 中学からの付き合いのなまえとは、別の世界で生きてきたんだと思う。俺に彼女がいたこともあったし、部室での噂によるとなまえにも生徒会内に彼氏がいたことがあったらしい。交わらないはずだった。それでも同じ中学のよしみで廊下ですれ違えば声をかけるし、俺も教科書を借りに行ったことがある。
 なまえがプリーツを翻して背中を向けたのを見送りながら、俺を呼ぶ声を、なんとなく脳裏に再生する。『黒尾くん』。地味とはまた異なる雰囲気の彼女は、俺が知る限り誰のことも呼び捨てにはしない。
「黒尾、授業始まるぞ」
 クラスメイトに声をかけられ我に返って顔を上げた。開け放したロッカーを見るなり眉をしかめた友人を無視して、小さな扉を乱暴に閉める。

 頭の中には、きれいなプリーツと、複雑に編み込まれた黒髪と、弧を描いた桃色の唇が巡っている。

*

「……黒尾くん?」
 窓の外では体育の授業が終わったクラスの面々が、ぞろぞろと昇降口に向かっている。砂埃に日差しが反射している。むせ返りそうなほどの晴天だ。
「早いネー」
 ほとんど棒読みで、心に残る響きの声に耳を傾けた。ちらりと横目に見上げたなまえは、机の上に広げられたまっさらなノートに目を留めるなり呆れた顔つきになって、俺の頭に英和辞書を軽くぶつける。
「集中できなかったの?」
「そう。天気いいしね」
 ふうんと顔を上げて、開け放した窓の向こうに視線をやった彼女の髪の先が、風に吹かれてふわりと揺れる。くすぐったそうに目を細めたなまえが、「いい席だね、羨ましい」と言った。気もそぞろで授業を真面目に受けられなかった俺を咎める一言も発しないまま、彼女は微笑む。
 例えばなまえが試合の応援に来たら、観客席からこの声は俺の耳に届くんだろうか。女の子らしい高らかに跳ねる声ではなく、透き通って力強いのに押し付けがましくない声。もう一度、演説の時の彼女の声を思い出す。緊張に震えることのない、はっきりと落ち着いた口ぶりの、背筋を伸ばしたなまえの姿が、脳裏にはっきりと蘇った。
「……生徒会はいつ引退?」
「10月に引退」
 すっきりとした表情の彼女に、自分を重ねてみる。引退だと口にする時、俺はこんなふうに晴れ晴れとした表情でいられるだろうか。これからを託す後輩の心もとなさだったり、掴みきれなかったものだったりを想って、前髪をぐしゃりとつかんだ。
「全国」
「うん?」
「応援来てよ、絶対」
 椅子に座って見上げる彼女の爪は、やはりきれいに切りそろえられている。
 なまえは一瞬驚いたような表情を浮かべてから、とびきりの笑顔で頷いた。
「もちろん!」
 演説が終わってから、深く頭を下げた彼女の姿は、教科書に載っていそうなほどきれいだった。そして顔を上げたその眼差しに滲む強い意思に、心は勇気づけられる。
「じゃあ、戻るね。辞書ありがとう」
「いーよ。またおいでー」
 手を振って教室を出る彼女の背中を再び見送る。伸びた背筋に、両手で思わず自分の頬を叩いた。
「どうした黒尾」
「んー、気合い」

 パリッとしたセーラーに美しく結われたリボン、短すぎず長すぎないスカートのプリーツ。凛としたよく通る声、伸びた背筋、穏やかで強い意思に輝く瞳、柔らかく弧を描く唇。
 そんな彼女が俺を、俺達を誇りに思ってくれたらいい。

 校内に予鈴が鳴り響き、俺は前の授業の教科書とノートをやっと机にしまい込んだ。
 開け放した窓から入り込んだ生ぬるい風に、前髪が揺れる。



かじつの残像







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