目を覚ましたのは、ベッドルームだった。裸足でフローリングを進み、リビングに入る。そこにはずっと変わらずにあるソファが鎮座していて、あの日を思い出して心臓がギリリと痛んだ。

普段通りを装って、シャワーを浴びて着替え、髪を整え化粧を施す。鏡の中の私は相も変わらず情けない表情を浮かべて、ソファに腰掛けて俯く少年の姿を繰り返し思い出している。


*


いつも通りの会社への道。電車は満員で、口を開けばため息しか出ない。足早に過ぎていくスーツ姿の背中を見送りながら、私は自分の足が止まっていることに気付いた。
ジャケットの裾を握る。不意に、唐突に、涙が出そうになる。

このまま普段通りに生活して、私は少年がいた時間を、少年といた時間を忘れられるのだろうか。そんなちっぽけな感情だったのなら、私は少年に好きだと言う権利はなかった。少年は私に、大切なことを打ち明けてくれたというのに。そしてそれはきっと、覚悟がなければできないことだった。


*


握られているように痛む心臓に知らないふりをして、少年の手を離した翌日から当たり前になった残業をこなす。余計なことを考えたくなくて、少年の影が残る家に居られなくて、以前より仕事に向き合う時間が増えた。

時々胸を去来する苦さを飲み込みながら、一心にモニターを見つめる。

どうすれば、少年の手を離さずに済んだのだろう。私は少年について、知らないことが多すぎる。
少年の表情は、もう何度も頭をよぎってきた。失恋なんてこれまでにもしたことはある。同じだ。そう自分に言い聞かせる。その内に傷は塞がる。そう信じるしかない。

だから、もう会わないと言った口で会いたいなんて口にしてはいけない。


*


「……よう」


モニターの右下に映し出される時刻が21時半を回った頃、私はようやくのそのそと帰り支度を始めた。デスクの上に散らばったペンをスチール製のひきだしに放り込み、乱雑な書類を整えラックに差し込み、手帳を鞄に入れた。パソコンの電源を落として鞄の紐を肩にかけて、気のない声で「お先に失礼します」と周囲に挨拶をした。


「…………なんで」


答えの出ない問が頭の中をずっと渦巻いている。その答えを諦めてしまえばきっとずっと楽になる。

その問を持て余したまま会社の入ったビルを出た私に投げかけられたのは、ほんの少しの緊張と幼さが混じった、脳内に何度も繰り返したあの声だった。


「……会いたかったから」


初めて少年が私を待ち伏せた時のことを思い出す。少年はあの日を彷彿とさせる出で立ちで、緊張した眼差しを向けて、無理やり微笑んで見せた。


「だって、もう、会わないって言った」

「まだ伝えきれてないことがある」


それでも少年の瞳の奥は、記憶に残る強い意志が灯っている。暗闇で爛々と輝きそうな、不屈の光をそこに見た。


「もう、会いたくない」

「俺にはそれが嘘だってわかる」


震える声を押し殺したまま俯けば、少年はいつもそうしていたようにそっと私の指先を握った。想像よりひんやりとして、強ばっている。


「なんで」


問うた言葉を正確に理解した少年が、私の指先を親指で一撫でして短く息を吐く。


「また、オサムに背中を押してもらった」

「...いい友達ね」


少年の、少年らしい幼さに思わず口から笑いがこぼれた。
まだ軽口を口に出来る余裕があったことに自分自身に対して大いに驚きながら、はっきりと嘘だと断罪された拒絶を飲み込んで、代わりに握られる指先に力を込める。

それはちょうど、道行く恋人がそうするように、指を絡ませて手をつなぐ格好になった。


「ああもう、」

「なまえ、俺に本当をくれ」


耳に雑踏の音が届かない。まるで隔離された世界だ。いずれこの手の先には誰もいなくなる。そう思うとまだ心臓のあたりがギリギリと痛む。
痛みに目を背けることは出来ないのに、私は俯いたまま、小さく、つないだ手に力を込めた。


「...遊真を、抱きしめたい」


ほたりと地面に落ちたしずくが、夜の街灯の明かりに照らされてコンクリートにシミを作った。





よろしい、ならば 解放








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