『きっと、全部夢だった』

そう何度も自分に言い聞かせる。

真っ直ぐに、射抜くように私を見つめる赤い瞳は、まるで宝石のようだった。挑戦的な眼差しで挑発されると、心臓が優しく掴まれたように音を立てた。少し小さな手のひらを握ると、見た目より随分男らしい手のひらが、私の手を握り返してくれた。

それら全部をひとつひとつ思い出しては、頭を振って忘れようとする。それでも忘れられないのは、去り際の表情が脳裏に焼きついてしまったからだ。

少年は悲しそうな顔はしなかった。きっと、悲しそうな顔をしたら私は簡単に「卑怯だよ」と言えただろう。でも、少年はそうしなかった。名残惜しそうな素振りは見せたものの、私を責めるようなことは言わなかったし、しなかった。


少年は、私が思っていたよりもずっと大人だったのだ。


*


「空閑?…どうしたんだ」

「……ふられた」


なまえのマンションから出て、部屋の方を見上げた。下から数えて6こめ。端から2番目。部屋に導くなまえの手の柔らかさを思い出して、視線を伏せる。

ぼんやりとなまえとの時間を思い出しながら玉狛に帰れば、オサムととりまる先輩がいた。とりまる先輩は俺を見るなり視線を外して、「風呂の準備はできてる」とだけ言った。
オサムが心配そうな声で名前を呼ぶのが夢みたいに感じる。夢だったらいいのに。

嘘を言わないひとだった。困ったり悩んだり笑ったり、年齢よりたぶん少し幼かった。素直で明るくて、一緒にいたら俺の気持ちも上の方に上がっていくような気がした。それを受け入れてくれるような気がしていた。

つまり、本当のことを伝えても、一緒にいてくれるんじゃないかと期待した。


別れ際の打ちのめされたような表情がふと脳裏によぎって、心臓がギリギリと痛む。違うんだ。あんな顔をさせたかったんじゃない。
でも同時に、もっといろんな表情を見たかったなと思う。俺のほとんどを占める喪失感と、僅かな征服感。それがないまぜになって、なまえにもうしわけない気持ちになる。


会いたい。
この感情は初めてで、俺は持て余している。その感情が行動に直結した時、なまえはそれを受け止めてくれた。からだ全部で、俺を受け止めようとしてくれた。
本当はそれで充分だったはずだ。それ以上は望んじゃいけなかった。

それならなんで、出会ったんだろうか。


*


私は少年に、伝えなければいけないことはなかっただろうか。

少年が私に3つの事実を告げたことをゆっくりと思い出す。

一つ目、少年は近界民である。
けれど少年は確かに感情を持っていて、人に優しくする術も知っている。近界民だから、と何かを線引きするのは違う気がして、口をつけていなかったグラスを手に取った。

二つ目、少年はボーダーである。
だから夕方に私服だったんだなあと思う。忙しい身の上で、合間を縫って私に会いに来ていたんだと、改めて感じて鼻の奥がツンとした。涙が溢れてしまいそうだ。少年は私にどれだけのものを与えようとしていたのか、それがわからない。

三つ目、少年はいつ死ぬかわからない。
そこまで考えて、はたと気づいた。いつ死ぬかわからないのは、私も一緒ではないか?少年はただ少し特殊なだけで、そう変わらないのでは?


そこまで考えて、どうも自分はこの先も少年と一緒にいるための理由付けをしているようだな、と思い当たった。

『夢だったと思って欲しい』と言ったのは私だ。『もう会わない』と言ったのも私だ。

取り返しがつくはずもない。
この期に及んで、少年の手に触れたいだなんて、どうかしてる。


*


なまえは『もう会わない』と言った。俺は、それが嘘だとわかった。正確には、一部が嘘だとわかった。

それは自分に言い聞かせるような声音でもあった。例えばなまえが『会いたくない』と言っていたら、はっきりと嘘か本当かわかったはずだ。でもなまえは、『もう会わない』と言った。強がる響きが混じったそれは、それでも確かに、ほんの少し嘘だった。

あの時俺が『嫌だ』と言えていたら、何かを変えることが出来たのだろうか。

ちょうどいい温度のお湯に肩まで浸かって、湯気がたつ天井に息を吐いた。手のひらを湯の中から出して、握ったり開いたりを繰り返す。なまえの手の柔らかさ、あたたかさを想って、目尻からお湯でも汗でもない液体が伝う。

なまえがようやく口にした、『好きだよ』という言葉だけが、頭の中をかけめぐる。


「俺も、なまえがすきだよ」


浴室内は独特のエコーで、俺はもう一度だけでもこの言葉がなまえに伝わってくれたらいいのにと、そんなことを願わずにはいられなかった。




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