仕事が手につかない。ほとほと困り果ててチェアの背もたれに体重をかけたら、ギシっと嫌な音がした。
画面に並ぶ文章は確かに日本語で綴られているはずなのに、ちっとも頭に入ってこない。数字の羅列は異国の教典のようなよそよそしさと取っつきにくさで、さらに私を追い詰める。

つい一昨日のことだ。見た目より大人びた眼差しの、飄々とした態度を崩さなかった少年の、心の裏側にある柔らかいところに触れたような気がしたのは、確かに一昨日のことだった。
デスクに鎮座するカレンダーを指でさして何度数えてみても、それは一昨日のこと。今でも、ついさっきのことのようなずっと昔のことのような、そんな落ち着かない気分にさせるのに。

どうして、私だったの。

なんでもない邂逅がまさかこんなことになるなんて。それも10歳も下の少年に、みっともなく顔を赤らめて振り回されて。ようやくすがり付いた大人の余裕だって、もしかしたら敏い少年のことだ、虚勢だと気づいているかもしれない。

ため息一つ。
さあ、残る勤務時間、どうやって取り繕おうか。既に仕事なんてする気にならない私は、形だけでも仕事の体をとるために、そっと身を起こして画面の中で蠢く単語を一つずつ拾い上げた。

*

「……遊真」

なんとか凌いで迎えた退勤時間。上司に見とがめられないようにそそくさと荷物をまとめてオフィスを後にした私を待っていたのは、紛れもなく私の頭から離れてくれない小柄な少年の姿だった。

「…腹、へってないか?」

一番最初と同じような言葉で私に手を差し出すこの少年に、私はあとどれだけ振り回されたらいいんだろう。
唯一違ったのは、あの時は挑戦的な笑みを浮かべていた少年が、僅かに固い表情をしていたことだ。


「…うん、空いた」


それでも素直に返事をしてしまったのは、少年が「嘘がわかる」と言ったからかもしれない。暗示にかけられたように、私はもう少年に嘘をつけない気がしている。

少年は私の返事を聞いて、安心したように眉間を緩めた。


「よかった」

「なにが?」

「ことわられなくて」


つないだ手は、最後の記憶の指先よりあたたかい。その温度に何故だか妙に安心して、私たちはとても自然に手を繋いだ。

繋いだ先の低い位置にある頭を横目に見る。
この少年は一昨日、私に好きだと言った。それも、それがどういう意味を持つ言葉なのかを理解して、口にした。そのことが私をどんなに苦しめているのか知らない顔をして、少年は真っ直ぐに前を向く。


「今日は制服なんだね」


制服を着ると、私服よりは年齢がはっきりとわかる。それでなくとも幼い風貌の少年は、私服を着ると更に幼く見える。それをわかって制服で来たのだろうか。


「今日は何もなかったからな」


今日は何も、ということは、普段は何かしらの予定が入っているということだろうか。

繋いでいる手に力を入れないように、違和感を持って首をかしげる。この少年はそんなことを知らず、白い髪の毛をふわふわさせて「カレーが食べたい」と呟く。


「…この近くだとファミレスかな。いい?」

「いいぞ」


少年の手のひらは私より少し小さくて、そしてあたたかい。骨ばった手の甲は男の子らしくて、なぜだか私は泣きたい気持ちになる。

一緒にいるのに、何かさみしい気持ちになった。確かに私の中で存在が大きくなっているのに、私はいつまで、この少年のいろいろなことを知らずに一緒にいるのだろう。

とうとう鼻の奥がツンとして、繋ぐ手に力を込める。
振り向いた少年が訝しげに私の表情を覗き込み、焦るでもなく淡々と、口を開いた。


「俺は、なまえのそういうところが好きなんだ」


そういうところってどんなところ?唇を開けてはみたものの、その言葉は言葉にならず、喉の奥でひゅうっと空気に変わった。少年は次第に沈痛な面持ちになり、私の手を握る指先に力を込める。


「……話をしよう。たいせつな話だ」




よろしい、ならば 迎撃








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