窓の外は快晴だった。水で伸ばした絵の具を塗ったような水色に、鳥のさえずる声が響く。どこにでもある、爽やかな朝だった。
日差しがカーテン越しにぼんやりと室内を照らす。彼はアラームよりも早く目が覚め、Tシャツとボクサータイプのパンツだけという姿でのそりとベッドから下りた。


「……かざまさん?」


一度大きく伸びをした彼の背中に、とろりとした掠れた声がぶつかる。彼がゆっくりと振り向いた先では、彼女が深い海の底のような色の布団から、彼を見上げている。


「悪い。起こしたか」

「…どうしたの」


普段よりもだいぶん遅い彼女の反応に、彼はベッドに腰掛けて、うつろな眼差しに掛かる前髪をそっと払う。彼女は気持ちよさそうにまぶたを落として、彼の指先を享受する。彼はその様に、言いようのない幸福感を覚えた。


「目が覚めただけだ」


赤い、印象的な目を細めて、彼は優しく答えた。普段は鋭く、感情のゆらぎを感じさせない強い眼差しは、彼女のためだけに温もりを滲ませる。彼女はそれを知ってか知らずか、彼の腰に腕を回してへにゃりと笑う。


「きょう、風間さんおやすみでしょう」


段々と覚醒してきた声音の彼女が、彼の腰に顔をうずめて口にした。僅かに非難の色が乗ったその言葉に、彼は苦笑いして彼女の形の良い後頭部を撫でる。

二人共がボーダーの任務から解放されるのは、そう珍しいことではない。しかし彼の空いた日は大体大学のレポートや試験勉強に持っていかれ、彼女はつまらなそうに膝を抱えたり、興味深げに彼の襟足を見つめたりして時間を潰してきた。


「そうだな」


彼女が彼の腰から顔を上げて、ほんの少し突き出した唇で「もう少し一緒にねてましょうよ」と口にする。

彼女はようやく手中におさめた完全な休日を、ただひたすら二人きりでのんびりと過ごしたいと考えている。

大学を辞めてしまった彼女にとって、大学とボーダーを両立する彼の存在は、最早未知のものである。


「なまえ、起きろ」


とびきりの甘い声に、彼女は観念したように布団から這い出て、そして寝ぼけまなこを擦った。
室内に漂う心地よい朝の空気。窓の外を見た彼女は、眉をしかめて息を吐いた。



*



「カフェオレでいいか」


狭いキッチンに立ってインスタントコーヒーの瓶を傾けた彼が、まだいろいろと腑に落ちない表情を浮かべてのろのろと歩く彼女に呼びかける。
ミルクパンの中ではミルクのふちがくつくつと煮えている。

彼女は心中で大きなため息を吐き、そして舌打ちした。


「……うん」


言うべきか言わざるべきか。彼女の逡巡を知らない彼は、どうにもご機嫌なように見える。対して、彼の手元をぼんやりとした眼差しで見つめる彼女は不機嫌そのものだった。


「なまえ、今日はどこか出かけよう」

「…………」

「二人で会うと言ったら、本部か家だっただろう」

「………うん」

「……なまえ?」


彼女がちらりと見やった先のリビングのテーブルの上には、乱雑なプリントとペンとノートパソコンが広がる。
昨晩彼を独り占めしていたその残骸が、彼女には面白くない。

大学とボーダーを両立している人間は他にもいる。あの太刀川でさえも、学業がおざなりとはいえ両立しているのだ。彼女は今更ながら下唇を噛んで、体の横で握った拳に力を込めた。
自分ではなし得なかったことだ。大学を辞めたことを後悔したことはないはずなのに、彼女はちりちりと焦げ付くような感覚を押し殺す。


「…風間さん、勉強おわったの?」

「いや、…だが終わりは見えた」

「いいよ」

「…何がだ」


彼がミルクをたっぷり注いだカフェオレを二つ、リビングへと持ってくる。
立ったままの彼女はほんの少し視線を揺らして、窓の外へと溜息を吐いた。


「今日、終わらせてもいいよ」


任務、訓練、会議、勉強、大学、そして付き合い、その合間の逢瀬。彼がやらなくてはいけないことを、彼女は一つずつ脳裏で数えた。

奪うように受け取ったカフェオレを持って、彼女は彼をリビングに残してベランダへと出た。ベランダに並んだ木製の椅子は、インターネットで二人で選んだものだ。このベランダからは花火が見えるのだと彼が言った日、彼女がせがんだ。注文し、届いて組み立てて並べたものの、結局花火を二人で見ることはできなかった。

彼女は、「さみしい」と言いたかった。それでも言えずに、ずっと言えないまま、今日に至る。

ベランダに顔を出した彼が、彼女の言葉の真意を探るように、言葉を選んだ。
彼は彼女の心中をゆっくりと図る。そして彼女もまた、どう伝えれば彼に伝わるのかわからずに曖昧な言葉しか選べないでいるまま、マグカップの縁に唇をつけた。


「なまえ、どこか行きたいところがあるか?」

「……ないよ」


彼女はただ、彼とふたりで過ごしたい。今の彼女にとって、外出はリスクが高い。
狭い街だ。そして彼を見たことがある人間も街には多い。折角のデートであろうとも、ボーダーの誰かと偶然合う可能性も低くはない。彼女は、邪魔をされたくはないのだ。


「……じゃあレポートを終わらせるから、終わったら出かけよう」


彼女はその言葉をゆっくりと反芻して、そして曖昧に頷いた。

彼女は「さみしい」と口にする気は無い。言ってしまったら二人の間の何かが変わってしまうような気がしている。
彼を含めたボーダーの人間が彼女に抱く印象から、彼女は恋愛方面において随分と成長の兆しを見せていた。残念ながら、それを誰も感じ取っていない。

彼女はベランダの椅子に腰掛けたまま、窓ガラス越しにパソコンを立ち上げた彼の横顔を見つめる。

パソコンの画面をまっすぐ見つめる彼の赤い瞳が細められる度、彼女はたまらなく悲しい気持ちになった。自分を見つめる眼差しと重なるためだ。実際には異なるはずだ。しかし、彼女の情緒が成長したとは言ってもまだ充分ではない。残念ながら、以前も今も彼女の頭を占めるのはボーダーのことばかりだ。


「風間さん、私、やっぱり家に帰ります」


ベランダと室内を隔てるサッシを滑らせれば、カラカラという軽い音が響く。空っぽになったマグカップをぶら下げて、彼女を見上げる彼の赤い瞳から目をそらす。
彼女はこれ以上、彼を見つめていられなかった。喉まで出かかってしまったさみしいという気持ちが、ともすれば一気に溢れ出てしまう気配を感じたからだ。

当然、それは彼の望むところでもある。
しかし彼女はまだ理解していない。


「……なまえ、お前、俺を舐めてるだろう」


彼が不遜な笑みを浮かべて立ち上がった。酷く好戦的な眼差しで、どう形容すればいいのかわからない感情に囚われる彼女の情けない姿を真正面から捉える。


「かざまさ、」


彼が彼女の腕を引くと同時、彼は文字通り彼女の唇に噛み付いた。そのほんの一瞬の痛みに、彼女は目を丸くして、そしてごく久しぶりに、瞳に涙を湛えた。


「俺が、なまえのことをどれだけ見てると思ってるんだ」


彼は気付いた。彼女が持て余していた感情の名前も、彼女が望んでいることにも。


「わかんない、わかんない……」


大粒の涙を零す彼女に、彼は耳元でそっと語りかける。咎める響きで、有無を言わせない強引さを持って、静かに唇を開いた。


「なまえ、俺に何をして欲しい」


彼女の耳には、その言葉はとても、優しく柔らかく聞こえる。彼女自身がそう望んでいるためだろう。
彼女は最早、もう何度目かもわからないが彼の手中に陥落する他ないことを知った。

彼はいつでも彼女を甘やかす。疑問をすぐに口にする性質を持っていた彼女が、彼と付き合い始めてから口ごもることが増えた理由を、彼は知っている。知っていたからこそ、彼は喜びを持って今の今まで口にしてこなかったのだ。


「……わたしだけ、みて」


そう、彼女が心のうちにしまい込んでいた感情は、彼に嫌われたくはない、という、ただそのこと一つだった。


「来い」


破顔した彼が彼女を抱きしめる。

彼女が涙目で見つめる先のノートパソコンは閉じられていて、彼女は内心で『ざまあみろ』と、無機物に向かって悪態をつくのであった。





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