秀次は今日も学校だ。いつも通りに心配を口にして、後ろ髪を引かれるように家を後にした秀次。

他愛もない話を沢山したような気がするのに、ゆっくりと自分が知りえた秀次のことをひとつずつ数えてみても、それはあまりにも少ない。

早く思い出してあげたいのに、あまりのままならなさに思わず天井を仰いで盛大なため息を吐いた。


「……痛い」


また、まだまだ慣れない頭痛に襲われ、近頃定位置と化したリビングのソファに身を沈めて横になる。視界に涙が滲んで、キッチンに居るはずの無い秀次の姿が見える。

秀次がいないと、この家は、この部屋はとても広い。さみしい。
情けないとは思いながらも、この家に一人きりになって、初めて今日私は泣いた。


*


ふと目が覚めたのは、17:00を少し過ぎた頃だった。
ソファからのそりと身を起こし、目を擦りながら壁掛け時計を見上げ、そして秀次が私のためにと買ってきてくれた通信端末を手に取る。

一通のメールが届いていたことに気づき、メールの送り主である秀次を思い浮かべてメールを開封する。何しろ私に連絡してくるのは秀次しかいないのだ。メールアドレスを設定したばかりだから、迷惑メールも届かない。


"ボーダーの会議が入ったので帰りが遅れます。ごめん。"


メールでは敬語になるんだな、と思いながら、返信ボタンを押す。


"わかりました。待ってます。"


心に広がった不安に押しつぶされないように、もう一度ソファに横になって目を固く瞑った。

私の世界を形成するものは、秀次しかいない。それがたまらなく不安で怖い。自分の世界を構築することが出来たら、真っ直ぐに秀次と向き合えるだろうか。

無意識に擦った下瞼では、涙のあとがカサカサに乾いている。


*


「ただいま」


ガチャリと鍵が開く音がして、飛び起きた。靴下を履いた足裏が廊下を捉える音がする。それと同時にぐしゃぐしゃになっているであろう髪の毛を撫で付けて、ソファから転がるように下りた。


「おかえりなさい」


まるで従順な犬のようだ。自分を客観視すると途端にとても滑稽な気分になって、そんな自分を悲しく思う。

それでも秀次は嬉しそうに安堵の笑みを浮かべて、もう一度優しく「ただいま」と言う。たまらなくなって、涙腺が緩んだ。

こんなことじゃダメだ。わかってはいるものの、どうすればいいのかわからない。私はきっと、私自身を持て余している。


「夕食にしよう、帰りに弁当を買ってきたんだ」

「ごめん、準備もしてなかった」

「気にするな」


仕方なさそうに笑う秀次。その仕草のひとつひとつに、私がどれだけ救われているのか、秀次はきっと気づいていない。

それはきっと、私が秀次の"姉"だからだろう。では、私は?私はまだ、秀次を心から弟だとは思えていない。思えていないからこそ、情緒が不安定なのだろう。

早く、思い出したい。そうすればきっと何もかも、うまくいくはずなんだ。


「ねえ秀次」

「どうした?」

「私、何かを始めてみようと思うの」

「……何かって?」


私の世界の中心にいるのは秀次だ。秀次がいないと生活もままならない。経済的にも精神的にも、依存している。自分が弟とは心から認識できていない人物に、だ。

それを打破したい。自分の世界を作っても、帰る場所はここしかない。それを思い知ることで安心したい。それが正しいことかはわからない。


「例えば、……車の免許とか」


不意に口から飛び出した言葉に、自分でも驚いた。そして同時に名案だと思う。


「……今の状態で免許は、俺は賛成できない」


しかし秀次はにべも無くそう言い放って、まるで何も言われていないかのような振る舞いで、手に下げたビニール袋から取り出したお弁当を二つ、テーブルの上に並べた。


「早く食べよう」


あまりにも自然な呼びかけに、私は何も言えず、ただ頷いて曖昧な笑みを浮かべるしかできなかった。





群青 -7-
出口のないトンネル








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