秀次が、玄関で何度も私を振り返りながら家を出ていった。いかにしっかりしていても、ボーダーの人間であっても、学業をきちんとこなそうとする年相応さを思って心が落ち着いた。

秀次のいない家を、ゆっくりと見て回ろうと思い立つ。忘れていてもいいとは言われたけれど、できることなら思い出したいと思う。それは秀次の為というより、自分自身のためである。
それでなくとも秀次は、『一時期の記憶を失っている』と言っていたのに、私が思う限り失った記憶は一時期なんてものではないのだ。


「私は、どうやって生きてきたんだろう」


私を育ててくれた両親の顔も名前も、私を慕う弟との歴史も、友人も思い出せず、いつも靄がかかっているような記憶。侵攻のショックに遭ってもなお、記憶を失わない人もいる。私の精神力は大きく人より弱いのだろうかと感じて、溜息を吐いた。


「ここは、秀次の部屋」


扉の前で逡巡する。いくら姉弟と言っても、この部屋を覗き見ることは許されないように思った。秀次が今まで抱えてきた感情が全て詰まっているのではないか。それを目の当たりにするのは、怖いような気もする。

情報の洪水に飲み込まれる恐怖が思考をよぎり、後ずさりするように扉から遠ざかってリビングへと戻る。朝食を食べ終わったあとの食器を洗おうとする秀次を静止したため、使い終えた食器はテーブルの上に残っている。


「洗っちゃわないと」


空っぽの食器を重ねてシンクへ運ぶ。それらを洗いながらリビングを見回せば、昨日気づかなかったことに気づくことができた。

この部屋にも、あまり生活感が見られないのだ。人が生活していた痕跡が感じられない空間。人が生活していたのなら、その人の好みによって調度や小物が揃えられるだろうと思う。しかしこの部屋も、存在を主張するようなものは一つもない。


「写真とか、ないのかな」


秀次は私を随分と慕っている。その背景には、すでに亡くなったという両親の存在があるのかもしれない。たった一人の家族を大切にしているのだから、一緒に撮った写真くらいはあるのではないか。

しかし、食器を洗い終えた私がリビングを探してみても、写真の類は一切見つけることができなかった。


*


「ただいま」


あの後、めまいに襲われてリビングのソファに横になったまま、いつの間にか眠ってしまっていた私は、頭上から降ってきた低い声に飛び起きた。昼食も食べずに、昼前からこんこんと眠っていたらしい。帰宅後にリビングで寝こける私に声をかけた秀次はいたずらっぽく笑い、もう一度「ただいま」と口にする。


「おかえりなさい」


秀次に返事を返して、起き上がる。その様を愛おしそうに、懐かしむように見つめる秀次の視線に、なぜだか心が痛む。
きちんと着込んだ制服に、首筋に汗が見える。秀次はゆっくりと私の方へと指を伸ばし、伸びた黒髪をひと房指先で梳くように撫でた。


「...秀次は、髪が好きなの?」

「違う。ただ、安心するんだ」


即答してそれだけ言うと、秀次は視線をキッチンに向けて、制服のボタンを外しながら冷蔵庫へと足を進めた。


「昼、食べれなかったのか」

「ちがうの。少し休もうと思ったら長い時間寝ちゃって」

「気分でも悪かったか?」


冷蔵庫から水を取り出してからコンロの鍋の中を覗いた秀次が、心配そうな面持ちでこちらを見つめる。


「少し疲れただけ」


ほっとしたように、それでも心配はぬぐい去れないという複雑な色をにじませた秀次が、躊躇いがちに微笑む。「無理はしないでくれ」わずかに震えた小さな声に、私は頷いて応えた。まるで秀次の言葉が私にとって絶対であるかのように。


*


「ねえ秀次、写真とかないのかな」


今夜も秀次が作ってくれた夕食を食べる。私の献立はお昼に食べそこねたおうどんだ。卵がふわふわと絡む麺を啜り、よく噛んでから飲み込む。

秀次は何かを少し考えたあと、箸を置いてテレビに目をやった。テレビの中では、きちんとスーツを着込んだアナウンサーが近界民からの侵攻とボーダーについて、淡々とニュースを読んでいる。


「両親の写真はないんだ。手元にあると辛かったから...」


私を見ないで、秀次は独り言のように口にした。どことなく違和感を抱いたが、その違和感は、私だったら、という前提の違和感であったことに気づき、息を吐く。


「俺はあの時、今よりずっと弱かった」

「...じゃあ、私の写真は?」


手元に思いを込められるものがないことは、逆に辛くはないのだろうか。それでもはっきりと、それを自分の弱さだと口にした秀次の口ぶりから、処分したことを後悔しているのではないかと感じる。

秀次はテレビから目の前のお皿に視線を戻して、置いた箸を取った。箸先でお皿の上のハンバーグを切り分けて、口に運ぶ。


「両親が撮った写真も、辛くて処分した。俺たち二人きりになってからは、写真を撮った記憶がない」

「そうなの」

「両親に関係あるものを処分したとき、それを知った姉さんは泣いてたよ」


わずかに安心した。恐らく以前の私と今の私の、共通点だと思ったからだ。亡き両親のものを処分されたら、私はやはりきっと泣くだろう。今も胸が痛む。けれど秀次の言うように、それは過去のことなのだ。私はもう、泣いたのだ。そしてきっと秀次を責めたのだろうと思う。


「秀次も、泣いた?」

「泣いた。...泣いたよ」


確かに、秀次は弱かったのだろう。秀次が好んで写真を撮ったり、写真に写ったりするとは考えにくいから、言う通り写真はないのかもしれない。まぶたを伏せてそっと息を吸った。


「そっか……」

「思い出したいか?」


その問に、できることなら、と答えようとして口を開き顔を上げる。秀次が真っ直ぐに私を見つめて、眉を寄せている。

私は、随分と弟がいることが慣れたと感じた。感じている。けれどそれは、秀次を理解したということではない。わからないことばかりなのだ。

でも、ふと思う。もしも秀次に思い出して欲しいと言われたら、私はどうするのだろうか。思い出すためのあらゆる手段を使って、それでも尚思い出せなかったら、私はどうしたらいいのだろうか。罪悪感に押しつぶされやしないだろうか。その様に、また秀次を悲しませることにならないだろうか。


「...何が正しいのか、わからないの」

「そうだな。...俺もわからないままだ」


私たちは同じように手探りで、同じ場所で同じ物を探しているはずだ。その中でも私達は前を向いて進まなければならない。過去に置き去りにしてきたものの大きさは想像するしかなく、今一番大切にしなければいけないのは現在と、そしてこれから進む道だ。


「正しい答えを見つけられないことが、不安よ」

「自分が出した答えを正解だと思えるように生きていくしかない」


最後の一口を咀嚼した秀次が、私の丼に視線をよこして、目だけで食べろと懇願する。

傍らに用意された薬の効果を知らないな、と、ぼんやり思いながら麺を口に運んだ。





群青 -5-
地獄に一番近い場所








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