「孝支」
 いつもと同じように、金曜日に俺を訪ねてきた幼なじみを、玄関をあけて中へと招き入れる。帰ってきたばかりでジャージ姿のままの俺とは対照的に、彼女は既にラフな私服で小さな紙袋を一つぶら下げていた。
「またかー」
 内心複雑に笑って見せた。二週間に一度必ずやってくる彼女は、クラスメイトや友人伝いに託されたという手紙をいくつか、まとめて持参する。世間では古くからいわゆるラブレターというそれらは、最初こそきちんと目を通していたが最近では部活にかまけて開封すらままならない。
「ごめんね。受け取るだけ受け取って」
 申し訳なさそうに顔の前で手のひらを立てた彼女に、謝るのはこっちだと思った。直接手渡せない弱さを、彼女に転嫁しているだけだ。あまり融通の利く方でない俺は、そのことに少し苛立ちを感じている。もちろん、その苛立ちを彼女に向けることがお門違いだとは理解している。
「なまえが謝ることねーべ」
 ここでいいよといつもと同じように玄関に座った彼女に、リビングから母親がお茶を持ってくる。「いつもいつも、中に入ったらって言うのに」そんなことをぶつぶつと言いながら、これもいつもどおり「気が利かない息子でごめんね」と付け加える。彼女はグラスを受け取って、困った表情で「ありがとうございます」と頭を下げた。
「部活は順調?」
「おー。みんな成長してるよ」
 ことさら嬉しそうに笑う彼女に、俺まで笑顔になる。俺がバレーに打ち込むのを、彼女は心から喜んでいるようだ。それは俺にとっても喜ばしいことで、安心する。
 彼女、なまえとは幼なじみだ。彼女も中学時代はバレーボール部に所属していた。練習のきつさと、女子特有の陰湿さを持った先輩たちとの人間関係に疲れ果てた矢先、彼女は肉離れを起こして、そして部活を去った。
「なまえ、今度試合見に来てよ」
 リビングから、皿に盛られたドーナツがひょこりと顔を覗かせた。悪戯な表情の母親の視線を見なかったことにして、皿を受け取るために立ち上がる。
受け取った皿の上のドーナツを一つ咥えて戻った先では、なまえが困った顔をして俺を見上げていた。
「ごめんね」
 それはドーナツの謝罪だっただろうか。俺がその言葉の意味を考えるより早く、彼女はその解を提示した。
「まだ、バレーボールには近寄れないの」
 今度、その意味は俺の中にすんなりと収まった。収まってしまった。彼女はいくつかの理由が絡み合って辞めることになったバレーボールに、まだ未練があるのだ。
 彼女の肉離れは酷いものだった。彼女の先輩は"練習の一貫"と言っていたらしいが、俺からはいじめとしか思えなかった。
 準備運動もほとんどないまま、先輩たちからレシーブを受けていた彼女の横顔が脳裏に浮かぶ。彼女は泣きそうな顔をしていた。その目からバレーボールへの愛情が少しづつ失われて行くさまを、俺は当時離れた場所から見ているしかできなかった。
「そっか」
 それでも何度か、俺から顧問や女子バレーボール部の部長に進言したことがある。それも焼け石に水だった。彼女は俺のせいじゃないと言ったけど、そういう"練習"がますます激化した責任の一端が俺にあったことは明白だった。
 バレーボールを離れてから、彼女は過敏に女子特有の空気から遠ざかるようになった。
「……いつか、なまえに見て欲しいな」
 思わず口をついて出た言葉に、彼女が泣き笑いの表情を浮かべる。
 バレーボールを離れてから筋力の落ちた腕が、足が、ゆっくりと細くなっていく。張りつめて生き生きとした体は、もうここにはない。彼女が奪われたものは、あの体育館に置き去りになっている。
「孝支、バレーボール好き?」
「好きだよ」
「私も」
 即答する凛とした声に何故だか無性に泣きたくなって、瞼を一度きつく閉じた。離れてようやく、好きだと思えるようになったのだ。
 脳裏に浮かんだのは、太ももを隠す白い包帯だった。あの時彼女が痛いと言っていたのは、足ではなく心だったのかもしれない。数年の時を経てようやく見つけたその答えに、そして、まさか今日そんなことに気づくとは思っていなくて、狼狽えた。
「なまえ、また俺がバレーしてんの見て、笑ってよ」
 手元の紙袋がぐしゃりと悲鳴を上げる。彼女は母親が持ってきたドーナツを頬張り、小さく「おいしいね」とだけ言う。
「孝支は、手の届かない人になっちゃったね」



 彼女が細い指先で俺の手元の紙袋を示す。
「ずっと近くにいただろ」
「バレーしてる孝支はキラキラしてて、時々すごく羨ましくて、憎らしくて、そんな自分に悲しい気持ちになるよ」
 思いがけず吐露されたのは、紛れもなく彼女の本音だった。今まで口にしなかった言葉だった。 釣られて俺も重い気持ちになって、なんて声をかけようか、なんて声をかけたらいいのかを必死に探す。
「なまえ、何かあったのか?」
 いつでも言えたはずの言葉を今日まで飲み込んできたのは何故なのだろう。そして、これまで飲み込んできた言葉を今日俺に伝えたのは何故なのだろう。
俺はこうして何度も彼女を家に招き入れて、そして試合を見に来いよと言っていたのに。
「孝支が遠くなってくのに、きっともう耐えられない」
 震える声と、彼女の頬を伝った涙に、そんなまさかと背筋が冷える。まさに青天の霹靂だ。
 バレーボールを通して知ったつもりになっていた彼女と、ずっと俺の目の前にいた彼女は、別人だった。俺は情けないことに、そんなことにも今日ようやく気づいたのだ。



君と僕の天秤







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