バッシュが擦れる音と、ボールが叩きつけられる音が断続的に響く体育館。
彼らが目の前のボールに視線を奪われていたまさにその時、体育館の扉が無遠慮に開け放たれた。
「なまえちゃん」
最初に声をあげたのは、マネージャーの清水だった。もう一人のマネージャーが、扉を開けた人物の姿を確認するなり目をキラキラさせて感動している。
部員全員の視線の先にいたのは、3年生の女子生徒だった。
「お疲れ様。これ、ノヤに渡しておいて」
駆け寄った清水に渡されたノートには、何も書かれていない。ただ、所々にカラフルな付箋が貼ってあるだけの、シンプルなノートだ。
「何か頼まれたの?」
「頑張ってるみたいだからね」
清水が小首をかしげてノートをペラペラとめくったら、各教科の要点が色や図形を使って丁寧にまとめられていた。
付箋ごとに教科が異なるそのノートは、西谷だけでなく、多くの学生が喉から出が出るほど欲しがる逸品だろう。彼女の在籍するクラスは、いわゆる特進クラスである。
「待って、西谷呼ぶから」
「いいよ。頑張ってって伝えて」
彼女はそれだけ言うと、笑顔で清水に手を振って、教師と監督とに軽く会釈をして扉を閉めた。
「…あいつ、なんて言ってました?」
「頑張ってって。はい、コレ」
額に滲む汗を乱暴に拭いながら、西谷が清水の元へとやってくる。普段清水と接するテンションをどこかに置き去りにして、その視線は閉じられた扉に向けられたままだ。
「ありがとうございます」
「それはなまえちゃんに言ったらいいよ」
「いや、あの、…っすね」
西谷と彼女は、幼なじみだ。しかし、一緒に遊んだ記憶はない。遊んだことはないのだ。西谷は昔から、ポジションは今と違えどバレーボールに打ち込んでいたし、彼女は静かに読書をする方が好きだった。それでも、中学に上がる前、中学からはリベロ制であり、自分がバレーボールを続けるためにはリベロとして守備を極めるしかないのだと、そう、初めて歯がゆさをまざまざと見せつけるように口にしたのは、彼女の前だった。
その時にも、彼女は本を読んでいた。
「なまえちゃん、この前の全国模試も上位だったって」
「……ッス」
西谷は清水にそれだけ答えて、そして、みんなの元へと走った。
西谷は知っている。自分とは全く縁のない、全国模試の結果を。
「追わなくていいのか?」
少しニヤついた菅原が西谷の肩を叩く。西谷は僅かに肩を揺らして、そして小さく首を振って笑った。
「それ、握り締めたままやるんですか」
Tシャツの裾をまくり上げて雑に汗を拭う影山がそれ、と指差したのは、西谷の手元のノートだ。西谷はそれを握り締めたままだったことに今気づいたとでもいうように、後ろ頭を掻いて、ベンチの方へと走る。
ベンチで、何やら記録していた谷地が手を止めて、西谷を仰いだ。
「すごいですね!」
「何が?」
「全国模試の結果、先生から聞いたんです」
教師が自慢げに彼女の話題を口にするのを、西谷は簡単に想像できた。面識がなくとも、彼女の名前を知っている人間は多い。
西谷が彼女に心の中を吐露した翌日、彼女は図書館で集めたのであろういくつかの雑誌を西谷の家に届けた。
リベロとして活躍する日本代表選手の特集が組まれたそれらに、西谷は複雑な気分になった。しかしそれも最初だけのこと。西谷は、しなやかで力強く、柔軟性に富んだその代表選手の熱気迫る写真に、リベロとしてのプライドを語るまっすぐな言葉に、すぐに引き込まれていった。
「ノヤー?」
コートの方から、西谷を呼ぶ声が響く。
いつの間にか何度も何度も読み返した雑誌を彼女に返したのは、雑誌が届けられてからちょうど二週間後のことだった。
今にして思えば、返却期限は貸出から1週間だったはずだ。それでも彼女は西谷が自発的に返してくるまで、一度も催促することはなかった。
「っス」
西谷はノートをベンチの隅に置いて、コートの方へと足を向ける。足元でバッシュが高い音を上げる。後ろ髪を引かれるようにちらりとノートを見やって、西谷はコートへと走り出した。
西谷がある日のランニング中に見つけたのは、神社だった。その神社はいつでもそこにあったが、西谷は初めて、そこで足を止めた。初詣くらいしか神に手を合わせることのない西谷は、自主トレーニングを中断して、鳥居をくぐった。
賽銭箱の近くでは、お守りが販売されていた。西谷はジャージのポケットに手をつっこみ、休憩時に飲み物を買うために投げ入れてあった小銭を手のひらの上で数え始めた。そこでなけなしの小銭で買ったのは、学業成就のお守りだった。お守りを受け取った西谷は、雀の涙ほど残った残金を賽銭箱に投げ、他人のために手を合わせた。
「よーし、今日は終わり」
体育館に響く低い声で我に返る。バッシュを鳴らして走って通り過ぎる面々が、西谷の肩を叩いていった。西谷はぼんやりしすぎていた自分を恥じて、息を吐く。向かった先に立つ烏養が、西谷に何かを言いたそうな顔をした後、逡巡して口をつぐんだ。
「西谷さん」
頭に星が光るマネージャーが、あのノートを西谷に差し出す。
あの時西谷が買ったお守りは、その足で彼女の元に届けられた。返却期限を過ぎた謝罪と、たくさんの雑誌のチョイスへの感謝と、ほかにも色々な感情を全て含めた『ありがとう』を伝えて。彼女は小さな紙の袋の中身を検めて、それからふっと口元を綻ばせた。その表情をすぐに思い浮かべることが出来る。
「おー、サンキューな」
受け取ったノートの表紙を見つめるばかりの西谷の背後、体育館のモップがけに勤しもうとする部員たちの内、西谷に声をかけようとした後輩が3年生によって制止される。
西谷が彼女から雑誌を受け取った時、彼女が西谷からお守りを受け取った時、二人の間に会話らしい会話はなかった。西谷はノートをまじまじと見つめながら、そのことをほんの少し後悔している。
彼女のチョイスは正しかった。
リベロの技術を説明するような書籍だったら西谷はぱらぱらと捲るだけだっただろう。しかし彼女が選んだ雑誌は、西谷がリベロというポジションに憧れるのに、とても重要な役割を占めた。リベロというポジションを誇らしげに掲げる、自分と同じように周りと比べて見劣りする身長の男を、西谷は今でも名前や身長や血液型、プレイの数々、チームメイトからの評価に至るまで、容易に思い出すことができる。
「……ノヤ、どうした?」
やがてモップがけの終わった面々が各々タオルやペットボトルを回収する中で、菅原が優しく声をかけた。
西谷はまだぼんやりとノートを見つめたまま、言いようのない感情に追いつかない思考で、何も書かれていないノートの表紙をひと撫でした。
「スガさん、例えば長い間しゃべってない奴に、なんて話しかけたらいいっすかね」
菅原が西谷の肩をべしべしと叩きながら、さもおかしそうに表情だけで笑う。普段清水にするのとは大違いの態度に、なるほど西谷はこうなるのかと、内心で大いに喜ぶ。
「ノヤがしたようにすればいいと思うよ。ノヤは話したいんだべ」
「……っス」
西谷がリベロ転向について心中を吐露したあの時、唐突に彼女は言った。『私は、医者になるか理学療法士になるか迷ってる』。西谷は、理学療法士が何をする職業なのか、よくわかっていなかった。彼女は医者になれるくらい頭がいいと、西谷は疑わなかった。実際には、彼女にとってそれは随分と難しいものだった。
西谷が理学療法士が何をするのかを知ったのは、高校に入ってからだった。西谷は、バレー一筋で生活していた。
「話したいこと」
一人つぶやいて、幼なじみというには希薄な関係の彼女を思い浮かべる。
「どっちでもお前なら頑張れるって、俺が言ってもいいんすかね」
頭上にクエスチョンマークがいくつか浮かびそうなほど間の抜けた表情で首をかしげた菅原に、西谷は曖昧に、簡単な謝意を告げた。
希薄な関係であったにも関わらず、お互いに自らのこころの一番大切な部分に触れたのだと思う。そして今、西谷は自分のポジションを心から誇らしく思っている。彼女はまだ決めかねているだろうか。もしも自分が理学療法士を必要としたとき、医者を必要をしたときそれが彼女であればいいと過るのはわがままだろうか。
西谷は荷物もそっちのけで、走り出した。恐らく記憶の中の彼女と同じく、図書室にいるであろう彼女の元へと、ノートを胸に抱えて。
偶像崇拝