「忍田本部長」


なるべく感情が出ないよう口にした言葉は、感情を隠すを通り越して随分と冷たい響きで彼の元へ届いた。にこりともしない口元に、周囲の和やかな雰囲気が一瞬で凍る。その様に、彼の傍らでモニターを見つめていた沢村さんが、困ったような表情で笑って彼を見上げた。


「根付から資料を預かっています」


手に持った資料を手近なデスクに置き、彼の方へと向き直る。彼はどう反応したものかと逡巡しているようだった。そしてひと呼吸おいて、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「ありがとう」


彼に小さく会釈をし、次いで周囲にも会釈をし、そして彼らに背を向ける。私が背を向けた途端に聞こえたのは、沢村さんのよく通る美しい声だった。思わず耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、ここは職場であって、そして私は仕事中であって、逃げ出すこともままならない。無意識に足早になってしまった自分を恥じつつ、扉に手をかけ振り向いて、もう一度、今度はきちんと頭を下げて部屋を後にした。

閉じた扉に背を預けて、一度大きな息を吐く。眉間に皺が寄っていることに気付き、意味が無いとは思いながらも指先でそっと揉みほぐす。


「...仕事だ」


自分に言い聞かせるように口にする。口にした言葉は驚くほどの冷静さを持って私の中にきちんと収まる。かわいくない奴、心中でごちて、扉から背を起こした。
足を踏み出す度にヒールが音を立てるが、その音が普段よりも大きいのはご愛嬌といったところだろうか。このくらいの八つ当たりは許して欲しい。買ったばかりのエナメルのつま先を睨んで、息を吐く。



*



「少しいいかな」


そろそろ終業の頃かと、自分のデスクを片付けているとき、根付さんが開け放して出たままの扉に寄りかかる体勢で、彼はあっけなく現れた。いざ帰らんとする体勢の私に、彼は器用に片眉を下げて室内に足を踏み入れた。


「...どうぞ」


それ以外の返答は望まれていないことを理解して、応接セットを示す。わずかに頷いた彼が重厚なソファに腰を落ち着けると同時に、いつもそうしているようにポットからカップにコーヒーを注ぎ、彼の元へと持っていく。
そうして向かい側に座れば、彼は満足げに、私が届けた資料を広げてみせた。


「この二枚目だが、戦闘員に対して随分と難しいことを言うと感じてね」


忍田さんのことだから、引っかかるだろうとは予想していたが、まさに予想通りの行動で訪問してくるとは思わなかった。もしくは、根付さんに直接確認すると思っていたのだ。彼の方も、根付さんが今ここにいないことに幾ばくかの落胆があっただろう。


「心情は理解します。しかし、ボーダーの存在意義を見誤るわけにはいきません」

「ボーダーの存在意義?」


しかしながら根付さんに依頼されてこの資料を作成したのが他でもない私である以上、この問答が忍田さんと私の間で行われたとて、一切の不都合はないはずだ。彼もそれをわかっていて、今ここでソファに座している。


「ボーダーが存在するのは、ボーダーの為ではない筈です」

「...そうだな」


彼は顎に手をやって、難しい表情で資料を見つめる。精悍な男がスーツに身を包んでいる様は、どうしてかくも性的なのだろう。真剣な顔で彼と同じように資料を眺めつつ、骨ばった手の甲を上目遣いで盗み見た。


「妥協案として、表現を柔らかくすることはできます」


いくつかの代案を示して落ち着いたのは、受け取る側によって見方が僅かに変わるような、そんな卑怯な曖昧さを含ませた文言である。忍田さんがふうと一度息を吐き、ソファの背もたれにもたれかかる。革張りのそれがぎしりと音を立てて、思わず子宮のあたりが甘く痛んだ。


「帰り際に悪かったな」

「仕事ですから」


そう、仕事だ。だから忍田さんを前に、たとえ不埒なことを考えていても、たとえ沢村さんに嫌な気持ちを抱いても、それらを表に出してはいけない。
そんなことは十分にわかっていて、だからこそ私はわかりやすく赤面してみたりなんてあざとい真似はしないと誓う。……沢村さんのようには、ならないと。


「異動して、」

「はい?」

「何か、辛いことはないか」


コーヒーカップを手に、至極真面目な表情を浮かべて真っ直ぐに私を見つめる忍田さん。思いがけなかった言葉に、思わず眉根を寄せた。
テーブルに広がったままの資料を丁寧に集め、順番を確認していた私は、目だけで忍田さんを伺う。

過去、私もご多分に漏れず戦闘員だったことがある。しがないB級隊員だ。A級に憧れることもなかった。その頃から、頭を使うことは好きだった。それが高じて、成人を目前に控えたある日、本部に呼び出されたのだ。


「……戦闘員より、合っていると思います」


ようやっと絞り出した声に、忍田さんが心から安心したように微笑んだ。


「それならよかった。……不本意なのではと、気になっていたんだ」

「忍田本部長は、みんなに優しいですね」


戦闘員だった頃を懐かしく思うこともある。チームメイトに頼まれて、脅されて、泣きつかれては毎晩訓練に明け暮れた。近界民による攻撃を受けた時の、情けなさと安堵感と怒りとがないまぜになったような気持ちの悪い感情も、今でもまざまざと思い出すことが出来る。
懐かしくは思うけれど、やはり戻りたいとは思えないのだ。一旦前線から離れてしまえば、後はもう、恐怖ばかりが体を支配する。


「……そうかな」

「公平という意味です」


揃えた資料をまとめて抱えたところで、忍田さんは中身がなくなったコーヒーカップをテーブルのソーサーの上に置いた。かちりと高い音が上がる。


「コーヒーをありがとう」

「いえ、……仕事」

「仕事だったか?」


真っ直ぐな、射抜くような視線が注がれる。
仕事以外に、何かあったのだろうか。仕事以外の何かを、忍田さんは感じ取ったのだろうか。だとしたら、それは私にとって大いなる失態である。誰にも気づかれてはいけないと、仕事に私情を持ち込んではいけないと、毎朝鏡の前で両頬を叩く滑稽な自分の姿が脳裏に浮かぶ。


「…仕事、です」

「そうか、…それなら、あんな目で沢村を見るな」


心臓が鈍い音を立てる。どくどくと嫌な動悸が脳を揺さぶる。快適な室温に保たれているはずなのに、背筋を嫌な汗が伝い、鳥肌が立った。資料を抱える指先は震え、ああやっぱり、と視界に涙が溢れそうになるのを必死にこらえる。


「あんな、目」

「いや、違う、そういう意味じゃない」

「忍田、さん」

「…俺が、期待するから、やめてくれ」


そういう意味とはどう意味だろう。私の心中を簡単に手中に収めたとでも言うのだろうか。
つまり忍田さんは、沢村さんをかばったわけでは、ない?


「…まだ、私の中では仕事中なんです」

「そうか、そうだな」

「だから今晩、食事でもいかがでしょう」


私が沢村さんに向ける、嫉妬と羨望の眼差し。それを忍田さんは、期待すると言った。
自分に都合よく解釈するのであれば、今はもう仕事だから公私混同は一切しないなどとのたまっていられない。鏡の向こうの私は毎朝、泣きそうに笑っていたじゃないか。


「ああ、そうしようか」


穏やかに、優しく紡がれた低い声に、頭がぼうっとする。同時に、抱えた資料が手のひらの汗でよれていることに気づく。


「俺は、尊敬しているよ。君の、仕事に対する姿勢を」


資料を抱え直して、背筋を伸ばす。
そんな言葉一つで、心を占めていた嫌な感情がきれいさっぱり無くなって、誇らしい気持ちになる。…そんなところが、好きなのだ。


「光栄です」


務めて朗らかに口にした言葉。思わず目尻に溢れた涙に、忍田さんの指先が伸びるのを視界に捉えた。




ジャックポット








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