初めてとしか言いようのない家の中にも関わらず、疲れのせいか泥のように眠った朝。カーテン越しの日差しは眩しく、干したばかりの匂いがするふかふかのベッドで寝返りをうった私は、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに重いまぶたを開いた。
ぼんやりとしていた視界は徐々にクリアになって、他人の部屋のようなよそよそしさを改めて実感していく。それは家具の配置であったり、フローリングの隅であったり、クローゼットであったりだ。
頭がズキズキと痛む。頭を振って、痛む頭に手を当てながらベッドから起き上がる。ぎしりと軋む音がして、私はフローリングに素足を伸ばした。
「姉さん、起きてる?」
まるで図ったかのように扉の向こうから投げかけられた声に、思わず肩が跳ねた。返事がないのをどう判断したのかは知らないが、秀次が今更扉をノックして、そしてもう一度「姉さん」と呼びかけた。
「起きてるよ」
がチャリと音がして扉が開く。そこには、制服を着た秀次が立っている。その表情は不安に満ちたものだったが、今まさに立ち上がろうとしている私の姿を視認するなり笑顔になって、手を貸すためだろう、急ぎ足でこちらへとやってくる。
「秀次、ふつうはノックしてから呼びかけない?」
「ごめん、おはよう」
謝罪の気持ちなんて欠片も感じない形ばかりの謝罪を口にして、本当にいいたかったのは後の挨拶だと言わんばかりに私に手を差し出す。毒気を抜かれて、その幼さに思わず笑みがこぼれた。
「おはよう。いい天気ね」
「ああ」
わざわざ手を貸す必要もないだろうとは思ったが、退院したばかりの姉に対して過保護になってしまう気持ちは、容易く想像できた。そしてそのことに、かわいいな、と思う。真っ直ぐに私を見つめて笑い、泣くことを厭わずに接する秀次。私は秀次を認識した、あの目覚めた日から短い期間に、随分と弟という存在に慣れた。
「起こしに来てくれてありがとう」
「朝食もできたからな」
さっき感じた香ばしい香りは、秀次が朝食を作っていたためだったかと合点がいった。年頃の男の子がキッチンに立つ姿を想像したら、なんだかとても温かい気分になった。そしてまた、とても嬉しくて、誇らしい気持ちにもなった。
そういえばと室内を見回す。昨晩は気づかなかったけれど、この部屋には時計がない。目覚まし時計がない中で声をかけられる前に目覚めた自分を内心で褒めつつ、だから起こしに来てくれたんだと納得する。
「じゃあ早く食べないと」
「そうしてくれると助かる」
差し出された手を取って立ち上がる。結構な期間のリハビリのお陰で、硬くなっていた体は動くことを思い出していた。歩くことにも違和感を持たないほどだが、時折襲う頭痛やめまいは続いている。
頭痛やめまいのことを言ったら、恐らく秀次は心配するだろう。ただでさえ、目覚めるまでにかなりの心配をかけてしまったのだ。あまりにも酷いようなら次の通院時にお医者さんに聞いてみよう。それまで秀次には言わないことを決めて、姉弟だと言うのに二人手をつないで部屋を出た。
*
「お粥だ」
リビングには、温かそうな食事が用意されている。並んでいるのは、スクランブルエッグ、ソーセージ、サラダ、パンと、その向かい側の梅がゆ。予想通り秀次が私の手を引いて、お粥の方の椅子を促した。
「退院してから一週間は消化にいいものをって医者から言われてるんだ」
「そうなんだ」
確かに長く何も食べていない胃に固形物は難しいかもしれない。病院食でも十分がゆからはじまり、退院する日の朝にようやく米の形が僅かにわかる程度のおかゆに進化していた。
朝から私のためにお粥を作ってくれる弟。秀次が少し照れたように視線をそらして、「うまいといいけど」と小さな声で呟く。
「いただきます」
「ああ」
二人で食卓を挟み、朝食を食べながらこれからしばらくのことを話し合う。どうやって生活していくのか、それは私にとっては大きい意味を持っている。
お粥はとてもおいしい。
「しばらくは一人で外に出ないで欲しいんだ。外で何かあったら困るから...窮屈だと思うが、我慢して欲しい」
秀次は私を見ずに、気まずそうにそう言った。私もその言葉の意味に納得して、「うん」と頷いた。しばらくがどれくらいかはわからないが、この辺りの地理もすっぽりと忘れてしまっている私は、外に出ろと言われても困ってしまう。今の私にとっての一人での外出は、恐ろしくハードルの高いものである。
「あと、連絡先も置いていく。何かあったらいつでも連絡してくれていい」
「...なるべく連絡しないようにするから、ちゃんと勉強しなさい」
制服に身を包んだ秀次が小さく吹き出して笑った。
「わかった」
幸せな光景だなと、ぼんやりと思う。
私が記憶を失うほどのショックを受けた近界民の侵攻で、友人も喪ったのだろうかとふと頭をよぎる。死を悼むことができないことは悲しく、そして故人に申し訳ない気持ちもあるが、実際にはもしかしたら忘れていてよかったのかもしれない。あまりにも辛い現実に向かい合わずに済むことは、ありがたいことでもあるのだ。
「ああ、あと、冷蔵庫にうどんがあるから、昼はそれを食べてくれ。市販のだけど麺つゆも作ってあるから」
秀次はキッチンのガスコンロを指さして言う。何から何まで先取りして動いてくれる秀次は、純粋に頼りになる弟そのものだ。「料理とかは覚えてる?」と続けて聞かれ、ほんの少し考えてから「うん」と答えた。
「ねえ秀次、夕飯何が食べたい?」
「作ってくれるのか」
「うん」
「嬉しいけど、姉さんが食べれるようになったらでいいよ。一緒に食べたい」
頼りになる弟の、わかりやすい甘えに口元が緩む。
なんて幸せな光景なんだろうと思う。
群青 -4-
柔らかい棘が刺さる