「ねえ、私風間君が好きよ」

「……知ってる」

「風間君が思ってるよりずっと、好きよ」


長い沈黙の間、なまえはぼんやりと落ちてゆく夕日を眺めていた。熱を孕んだ風が、僅かに明るく染められた髪の毛をさらう様を、風間はまるで夢のことのように思う。あまりの現実感のなさに、風間は思わずなまえの髪の毛に手を伸ばした。なまえはその気配を感じてかそっとまぶたを伏せ、手すりを握る手に力を込める。


「なまえ、選抜おめでとう」


伸ばした手を思い直して引っ込めた風間が、胸元で握った拳を見下ろして口にした。

なまえは遠征部隊に選抜されることを望んでいた。その為にあらゆる訓練をしていた。チームメイトたちが可哀想になるくらい、なまえは真っ直ぐだった。
風間は今更なまえ程の努力はせずとも遠征部隊に選抜されるであろうことが、はっきりとわかっていた。上層部からの信頼が篤く、なまえとは比べるべくもない実力を持つ風間は感心しながらなまえを見つめるばかりだった。


「ありがとう」


なまえが何故今回に限って遠征に行くことを強く望んでいたのか、風間は知らない。誰もそれをなまえには問わなかったし、なまえも自らそれを口にすることはなかった。しかしなまえのチームメイトたちはそれを知っていた。だからこそ今回の遠征に選抜されるべく、なまえの望みを叶えるべく、訓練に励んでいた。


「なまえ」


風間はなまえの名を呼び捨てる。ボーダーではなまえの方が後輩にあたる。しかし年齢はなまえの方が上だ。当初、風間はどのように接するべきか迷っていた。それを打破したのは他でもないなまえ自身だった。「後輩として扱って下さい」わずかに固さを持った声に、風間は頷いて無表情で答えた。「じゃあ俺のことは年下として扱ってくれ」そうして築かれたのは、割とフラットな関係だった。


「戦闘員としての最後の仕事よ」


まだ完全に落ちきらない夕日の色がなまえの横顔を染める。言われた意味を何度も反芻しながら、風間はようやく合点がいったように息を吐いた。

連日の訓練を、息を切らせながらなまえに笑いかけていたチームメイトを、その様を見つめていたボーダー隊員たちを、ゆっくりと風間は脳裏に描いた。


「……戻ったら本部か?」


なまえは体をくるりと反転させ、落陽に背を向けて柵に寄りかかる。眼差しが暗く淀んでいることに気づいた風間が、なまえの心中を慮って言葉を選ぶ。


「本部への転向は、なまえが戦闘員として使えないからではない」

「そうね」


なまえは諦めにも似たため息で風間の励ましを甘んじて受けた。

なまえの中ではまだ決着していないのかもしれない。風間は、ボーダーに入隊してからずっとアタッカーとして貢献してきた、その一つに結んだ髪の毛がなびく様を思い出す。口数の多いほうでないなまえと、合同任務でうまくコミュニケーションが取れなかったことを、少食のなまえのうどんを半分食べてやったことを、風間はまるで走馬灯のように思い出す。


「……本部に転向するつもりは、ないの」


明確な意志を持って告げられたなまえの言葉に、風間はその唇を見つめる。丁寧に化粧の施された表情。その眼差しは風間を捉えず、赤くつやつやと光る唇のふくらみに、風間は無意識に息を飲んだ。


「ボーダーを辞めるということか」

「そうね」


風間は、最初に告げられた告白の意図を、ようやく理解した。なまえは全てをボーダーで終わりにするつもりなのだ。風間には全く理解出来ない心情だが、それを口にしたら恐らく以前と同じように、「風間君はまだ若いもの」と困った表情させることになるだろう。風間はその言葉に弱かった。なまえの年齢を飛び越えることはできない。それは紛れもない事実であって、なまえは時折懐かしむように、そして眩しそうに風間たちを眺めていた。


「辞める理由があるのか」

「続ける理由がないのよ」


なまえが本部への転向を打診されたのは、年齢によるものが大きく要因していた。加えてA級下位に位置するチームだ。戦闘員にしておくだけの実力を持つとは、恐らく言い難かった。そんなチームが遠征部隊に選抜されることは、もはや奇跡とでも言うのだろうか。なまえは遠征部隊に選抜されたと知った時、安堵の表情を浮かべた。さしものなまえも、遠征部隊に選抜されれば戦闘員のままでいられるとは考えていなかった。


「風間君が、好きだった」


遠い目で泣き笑いの表情を浮かべたなまえが、静かに言う。風間はどう返したものか逡巡して、そして答えは遠征から戻ってからなまえへ告げようと考える。風間は最初と同じように、「知ってる」と返答した。なまえの告白が過去形になっていることに、風間は気づかなかった。



*



「風間さん、お帰りなさい」


名前を知らない本部のエンジニアが、にこやかに小さく会釈をするさまを風間はぼんやりと見つめる。そしてエンジニアはキョロキョロとあたりを見渡して、いるはずの人物がいないことに違和感を持って首をかしげた。


「なまえさんは?」


風間は目をそらした。目を背けるしかできなかった。背後で彼女のチームメイトが息を呑む気配がする。エンジニアは首をかしげた格好のまま、なにか納得したように、その場を立ち去った。報告のために本部にいる風間たち、エンジニアはなまえがわざわざ報告に行く必要も無いかと納得した。エンジニアの背中に悲壮感は一切なかったから、風間は胸が痛んだ。



*



「今回の遠征の成果です」


上層部の前に並べられたいくつかのブラックトリガー。面々は渋い表情で指を組んだり、目元を押さえたり、大きく息を吐いたりした。本部長が重い口を開く。風間のことは見なかった。


「……どれが」


言われた意味を正確に汲み取った風間が、並んだブラックトリガーのうちの一つを示して言う。


「これが、なまえです」


この場に名で呼ぶのはふさわしくなかったな、と風間は思う。既に口にしてしまったことを僅かに後悔する。しかし、目の前の人間たちはそのことを咎めたりはしなかった。

本部長と司令官が、示されたブラックトリガーに視線をやった。つやつやと、室内の照明を反射するブラックトリガー。

なまえは、特にものすごく追い詰められたわけでなく、ブラックトリガーとなった。


「何があったんだ」


指令の低い声が室内に響く。ここで風間が答えずとも、その場に居合わせた人間によってすぐに耳に入るはずだ。それは同じ室内にいる三輪かもしれない。風間は息を吸って、そして吐いた。喉が震えた。


「戦闘員の役に立てばいい、と」


玉狛支部長がタバコを折った。皆一様に、無表情だった。

なまえは致し方なく、他に方法がなくブラックトリガーになったわけではない。自ら望んでブラックトリガーになったのだった。

風間は変わり果てた姿のなまえを手に、何度も何度も後悔した。あの時、なまえに言うべきだった、言わなければいけなかった言葉を、必死に脳裏に並べた。並べても並べても、時間は巻き戻らない。風間はそれを知っていた。しかし、思うことを止められなかった。風間は、なまえが欲しがる言葉を選んだことは一度もなかった。


「……適合試験の計画を」


司令がまぶたを伏せて口にした。風間の方を見ないのは、わかりにくいが優しさだった。この場にそぐわず風間がなまえを名前で呼んだことも、司令をはじめとする上層部の面々は特に気にしてはいなかった。風間の心中を慮っていたのだ。

風間となまえが並ぶ時、穏やかな雰囲気だった。風間は往々にして殺伐とした空気をまとっていたが、なまえによって中和されていた。それを、母性と表現した隊員もいた。なまえは確かに戦闘員としては足りないところは多くあれど、年相応に落ち着いた、穏やかで柔らかい人間だった。


「これは、彼女の選択です」


風間がゆっくりと、皆を見渡して言った。本部長が悔しさを滲ませて、「ああ」とだけ言った。なまえに本部への転向を命じたのは、他でもない本部長だった。結果的にその判断は誤った。そういう結果になってしまった。風間はそのことを敏感に感じ取って、なまえの成れの果てに視線を落とす。


「誰のせいでもありません」


そして風間は、心中で付け加えた。"もし原因があるとしたら、それは俺です"。
風間はなまえに言うべきだった言葉を、遠征艇の中でいくつも並び立てた。そして、なまえに伝えなければいけなかったのは、言うべき言葉ではなく、言いたい言葉であったのだと、それにようやく気づいた時、遠征艇はここに戻ってきていた。

部屋を後にして扉をしめる。重苦しい空気から解放された風間は、言葉を選ぶあまり何も言えない三輪の前で、少しだけ、瞳を濡らした。



*



なまえのブラックトリガーの適合条件は、シンプルなものだった。適合実験の対象にC級隊員も含んだのが功を奏した。

なまえのブラックトリガーは、戦闘員を続けるには能力が足りないと思われる人間に適合した。
当然ながら、風間には適合しなかった。A級隊員の誰もに、適合しなかったのだ。
なまえのブラックトリガーは、確かに戦闘員の助力になるだろう。早ければ月内から、訓練が始まる算段だ。

言いたかった言葉がある。
なまえの告白は、返答を望む響きではなかった。なまえは風間に押し付けることはしなかった。そもそも、あの告白が愛の告白だとは、風間はどうしても思えなかった。実際のところはわからない。

あの日と同じように、屋上で落陽を見つめる。あたりを橙に染めるあたたかな色に、風間はようやく一つの言葉を見つけた。


「好きだった」


その日、風間は生まれて初めての失恋をした。





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