「風間くーん!!!」


アパートの一室。防衛任務と夕食から帰宅し、風呂に入って着替え、机に向かって大学のレポートを書いていたまさにその時、外から聞こえた声にらしくもなく心臓が口から転がり出そうなほど驚いた。


「...何をしてるんですか」


無視してやろうかと思ったものの、続く叫びは徐々に大きくなり、さらには涙混じりになった。これ以上は俺の評判に関わるのではないか、渋々玄関まで出向いて扉をあけたら、やたらと大きい鞄を抱えたなまえさんが、涙目で俺を見つめた。


「うう、風間くん、しばらく泊めて」


なまえさんが纏う空気は、記憶にあった。まさかと思いつつ、それとなくなまえさんの左手に目をやれば、そこで輝いていたはずの忌々しい指輪が無くなっていた。


「なまえさん、勘弁して下さい」

「そんなこといわないで」


何度もなまえさんの戦闘スタイルを目の当たりにしたことがある。ランク戦でも防衛任務でも、誰からもいやらしいとか卑怯とか、感嘆と好奇心混じりの評価を受けている。なまえさんはプライベートでも卑怯なんだ、ため息をついて心中でボーダーの面々に告げる。


「俺はなまえさんが全くわかりません」

「しんどいって思った時、最近風間くんが思い浮かぶのよ」


ぐすぐす言いながらティッシュの箱を抱えてなまえさんがそう言うのは、俺の部屋だ。追い返すことは諦めた。なまえさんは既に勝手知ったるこの部屋を見回すこともせず、真っ直ぐにベッドに腰を落ち着けた。頭が痛い。


「...卑怯すぎる」

「だって聞いてよ!帰りたくないの!彼氏、浮気相手をよりにもよってわたし達の家に連れ込んで、わたし達のベッドでいちゃいちゃしてたの!それも何度も!」


なまえさんがどんな経緯でそれを知ったかは定かでないが、その口から元彼という単語ではなく彼氏という言葉が飛び出してきたのだけは理解した。そして脱力すると同時に歯がゆさで憎しみすら感じる。


「それでも好きなら戻って下さいよ」

「好きじゃないよ!もう!別れたの!」


あまりにも驚いて、持っていたペットボトルを落としてしまった。ぐすぐす泣いているなまえさんのために冷蔵庫から取り出した、水の最後の一本。幸い蓋を開けていなかったから、ボトルはフローリングにぶつかって潰れた音がしただけだった。


「...別れたんですか」

「別れました。もう必要最低限しか顔を見たくないから、さっさと引越し先決めて出ていく」


心の底から驚いた。これまでもなまえさんは何度か浮気されている。その度になまえさんは「私が忙しいのが悪いの」と、彼氏とやらに言い放たれたのであろう言葉をそのまま受け止めて許していた。その度にもう少し彼氏をかまってあげなきゃと笑うが、その度になまえさんはやっぱりボーダーや仕事を優先して彼氏とケンカになっていた。


「そうですね。早いとこ引越し先見つけて下さい」


なまえさんが、俺が拾い上げたペットボトルに手を伸ばす。手渡したペットボトルの中身は、一気に半分程消えた。そしてティッシュの箱を放り投げ、今度は俺の枕を抱えて上目遣いで立ち尽くす俺を見上げた。


「なんですか」

「弱みに付け込んでもいいよ」


馬鹿なことをいうな、喉まで出かかった言葉を飲み込む。ともすれば怒鳴っていたかもしれない言葉を飲み込むことができて、心底ほっとする。

俺は過去、この卑怯な年上の女に真面目に告白をして、軽いトーンで簡単に断られている。
俺は真面目だった。何度も浮気されては俺を含むボーダーの面々を誘いやけ酒して、潰れて、泣いて、吐いて、また泣いて俺たちに縋る。


「なまえさん、行くところがないならしばらくここに住んでいいですよ。俺は本部で寝泊まりします」

「本気で言ってるの」

「はい」


頭が痛い。女を武器にすることに慣れたのであろう26歳は、俺にとってそれがどれだけの凶器になるのかを理解していない。
こんな性格の女で、たかが学生の俺が手を伸ばすには大人すぎる年齢だ。そんななまえさんを、情けなくもまだ諦め切れていない。


「皆まで言わなきゃ気づかないの?」

「何をです」

「私、風間くんに告白されてから、しんどいとき風間くんにしか声かけてない」

「そんなこと知ってます」


振ったくせに、また口をついて出そうになった言葉を飲み込む。なまえさんの戦闘スタイルを見るに、この女はえげつなさすぎる。なるようになれと、息を吐いてベッドのなまえさんの隣に座れば、その瞳がほんの少し嬉しそうに輝いた。


「幻滅した?」

「呆れてます。そんなので仕事大丈夫なんですか」


なまえさんは成人しているボーダーの中では珍しく、Wワークをしている。ボーダーの戦闘員と、高校の非常勤講師。こんな性格の癖に誕生日に生徒からプレゼントを貰ったり、生徒からの相談で防衛任務に遅刻したりする。要は何故だか慕われているようなのだ。全くもっておかしいとしか形容できないが、別に俺が不利益を被るわけではないので口にはしない。


「仕事は平気。理想の教師像があるから」

「じゃあ、ボーダーは?」

「あるよ。自分にしかできない芸当が必要だから、その通りにしてる」


確かにあんなえげつない卑怯な芸当はなまえさんにしかできないだろう。言葉巧みに対戦相手の動揺を誘ったり、じわじわと追い詰めて遊ばせて相手の自滅を誘ったり、最初こそ感心していた隊員たちも、その内「味方ならこれ程心強い人もいないけど」と小さな声で呟いて引いていた。


「プライベートには、理想がないんですか」

「私の頭の中は、ほとんどボーダーのことと生徒のことでいっぱい」


ふと目をやった先のゴミ箱に丸められたティッシュが山盛りになっているのを見つけて、よからぬ気分になる。それを振り払うようにまたため息を吐いて、これくらいなら許されるだろうかとなまえさんを抱きしめた。


「なまえさん、本当に勘弁して下さい」

「風間くんは理性の人ね」


俺の背中に回った腕に気が良くなって、鼻先のなまえさんの首元に唇を寄せた。


「本当にそう思いますか」

「訂正した方がいい?」


堂々巡りもいいとこだ。なまえさんがくすぐったそうに身をよじり、そのタイミングでやわらかい胸が押し付けられた。わざとなのかそうでないのか、それを疑うほどには俺はなまえさんを信用していない。翻弄されることに、ゆっくりと慣れているのだ。遅効性の毒のような女だと思う。


「なまえさんを好きになったのが運の尽きだ」


もう何度目かわからない溜息を吐いて、顔を上げる。濡れた瞳が俺を捉えて、肩が震えた。据え膳すぎるほどの据え膳だ。それでも、俺には俺の矜持がある。ここで誘惑に負けてはいけないと、目と鼻の先の唇を睨む。


「風間くん、あんまり私を甘やかさないで」

「酷くされたいんですか」

「そうされても仕方のないことをしてるって自覚があるの」


なまえさんがまぶたを伏せて、そして自分から俺の唇に、柔らかなそれを重ねた。ぬるりとした舌が口内に遠慮がちに侵入して、ちくしょうと心中で悪態をついてその舌先に歯を立てる。


「いった!え、なに、」

「いい加減にしてください。便利に俺を使うな」


情けないことに反応してしまった肩に気づかれないことを祈りつつ、頭の中で数式を唱える。落ち着け。思うがままだ。
しかしなまえさんは何を思ったのかあっという間に俺を押し倒して、もう一度唇を合わせて俺の股間を撫でた。


「便利に使ったことなんて」

「ないんですか」

「風間くんを好きになりたかっただけよ」


酷い殺し文句だ。


「俺を舐めてるんだな」

「舐めて欲しいの?」


俺の股間を撫でるなまえさんの指に力が入った。思わず腹筋に力が入って、同時に喉の奥から掠れた声が短くこぼれる。そんな話はしていない、そう言いたくてもなまえさんは随分と気を良くしたように、俺の上にのしかかる体勢のままくしゃりと笑うから、バカバカしくなって目を逸らす。


「もう戻れませんよ」

「うん。...抱いて」


どうやら本当になるようになってしまったようだ。

初めて触れたなまえさんの胸は柔らかく、初めて絡んだ指先は細く、初めて繋げた体は、涙が出そうなほど情けなかった。




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