「留年が決まったの〜」
へらりと笑い、ボーダー本部のラウンジに現れたなまえさんのその言葉に、1番衝撃を受けて青ざめたのは太刀川だった。
「…マジで?」
「そうなの〜。今日久々に大学行ったら呼び出されてねえ」
夏季休暇を間近に控えたこの時期、俺の一歳上のなまえさんは、それでも焦ったり悲壮感を感じさせたりはせずに、明るく軽く、椅子に座ってコーヒーを飲む。
「マジかよ、俺もやばいじゃないすか」
A級隊員であるなまえさんは、当然防衛任務に、後進の教育に忙しい。遠征に選抜されることもある。それはどうやら免罪符にはならないのだと、現実の厳しさを目の当たりにした。
「太刀川くんはやばいけど、風間くんはきっと大丈夫〜」
あっけらかんとしたなまえさんの様子を見るに、本人はごく自然に納得して受け入れているんだろう。それがますます俺たちの焦りを煽る。
ボーダーであることは、免罪符にならない。
おれたちは市民を守っているんだと思えば、その免罪符を掲げてもいいように思っていた自分たちが情けなくなり、自然と神妙な空気になる。
「なまえさん、なんかアドバイスないの」
情けなくうなだれた太刀川が、上目でなまえさんに助けを求めるような細い声で嘆く。なまえさんは少し思案した後、へらりとゆるい笑みを浮かべて指を組んだ。
「必修はおとしちゃだめよ〜」
そんな分かりきっていることを改めて言うあたり、なまえさんは必修単位を落としたのだとはっきりわかった。それも前期の必修単位だ。後期にはこの講義はないのだろう。だからこその留年決定だ。
「前期で留年決定とか、拷問すぎだろ」
「来年よろしくねえ」
ボーダーのメンバーの中で、なまえさんとおなじ学部に在籍しているのは俺だけだ。項垂れる太刀川をスルーして、なまえさんは俺を真っ直ぐに見つめて笑っている。
「なまえさん、そんなに授業出れなかったんですか」
「あのねえ、レポートの字数が足りなかったみたいなの〜」
ふとした疑問を投げかけたら、レポートという言葉にとうとう太刀川が崩れ落ちた。テーブルに額がぶつかる音が低く響く。
なまえさんは、あらあらと呑気に言って、太刀川の髪の毛を撫でた。
「来年は同学年なんですね」
「まあ、他の単位は取れる予定だから、ほとんど学校には行かないと思うけど〜」
それもそうか、なんとなく残念な気分になる。
普段も飄々として、現れる度に雰囲気がゆるくなる。へらへらと笑みを絶やさず、それでいてバイパーとハウンドで撹乱させながらスコーピオンで背後から切り込む戦法でA級に在籍するなまえさんの、学業に向き合う姿を一度見てみたい、と思う。
「勉強してるなまえさんって、想像つかねえ」
独り言のように口にした太刀川に、心中で同感だと答える。なまえさんはそんな失礼な発言も全く気にとめず、「太刀川くんよりマシだよ〜」と笑顔で追撃した。
「なまえさんが落としたのはその単位だけですか」
「そうだよ〜。そのほかはねえ、優と秀なのねえ。一年からそれ以外の評価見たことはないの〜」
がばりと頭を起こした太刀川の、信じられないものを見るような表情。変わらずに蒼白のまま、口をぱくぱくさせて、震える指でなまえさんの手を握った太刀川が、「裏切り者」と恨みを込める。
「レポートはいつも褒められるし、試験の成績もいいのよ〜。勉強は嫌いじゃないの〜」
独特の間延びしたしゃべり方。任務中にこのしゃべり方を聞くと苛立つと、菊池原が言っていたのを思い出す。故に菊池原はなまえさんが苦手なのだと言う。年上の余裕うざいと嫌な顔をしていた。誰が何を言っても、なまえさんは変わらない。いつもへらへら笑い、相手を馬鹿にするような喋り方で、食ってかかる人間はことごとく返り討ちにあった。
そういえば、太刀川のところの国近もこんなしゃべり方じゃなかっただろうか。どうでもいいことを考えながら、手元のコーヒーを飲む。
「意外です」
率直な感想を述べた俺に、なまえさんがけらけらと笑う。ふと、太刀川がなまえさんの手を握ったままでいることに気付き、思わず太刀川の手をはたいた。
「わたし、任務ない時はいろんな先生の雑用手伝ってるしねえ」
人好きのする、なつっこい笑顔。しかし戦闘中の様子を見るに、頭の中は冷静そのものだろう。頭の回転が早く、相手に敵意を見せない性格であることから、要は気に入られてるんだろうなと思い当たって、納得する。
「裏切り者」
再び太刀川が恨みを口にして、「レポート手伝ってくださいよ」と図々しいことをのたまった。なまえさんはへらへら笑いながら、「わたしそういうの嫌いなの〜」と一刀両断する。
「ていうかねえ、勝手に仲間意識もたれても困るのね〜」
ゆるい笑顔から飛び出した辛辣な言葉に、太刀川のこめかみあたりがぴくりとした。なまえさんはそんな太刀川にはおかまいなしに、残ったコーヒーを一息で呷る。
「風間くん、私のノート貸したげようか〜」
「……いいんですか?」
「真面目な子はねえ、好きだから」
なまえさんに他意はない。わかってはいても、どうしてか一度心臓が跳ねた気がした。太刀川が何やらぶつくさと文句を垂れている。
確かになまえさんは、どれだけ成績が優秀でも努力してないように見える人間には積極的に関わろうとはしていない。代わりに、大いに実力差があれど努力して高い壁に阻まれて膝をついて、それでも立ち上がる人間には有り得ないほど優しく、休日返上で付き合っている。
「ありがとうございます」
「最近のお気に入りはね〜、三雲くんなのねえ」
なまえさんの、弧を描いた形のいい唇からこぼれた名前に「ああ」と思い当たって、思わず納得した。確かに、なまえさんが気に入りそうだ。
「最近あちこちの隊を訪問して、学ぶ機会を増やしているようですね」
「そうなの〜。私のとこにも来ないかなあ」
空になった紙コップを片手でぐしゃりと潰したなまえさんが、意味ありげに俺をちらりと見た。口元の笑みは深いのに、目は笑っていないように見えて背筋に嫌な汗が伝う。
「風間くん、妬いちゃうかなあ」
椅子を立ったなまえさんが、太刀川の頭をぽんと撫でて、「今度単位取りやすい講義教えてあげるよ〜」と笑った。太刀川が面白そうに俺を見つめた後、「ありがとうございます!」とまるで女神を崇めるようにこうべを垂れる。
なまえさんは努力を惜しまない人間が好きだ。この、一見ちゃらんぽらんにも見える太刀川でさえも、A級一位であるための努力はしている。だからこそ、なまえさんは結局太刀川にも優しい。
「風間さん、塩送られましたね」
「ああ、……今回ばかりは、菊池原に同意する」
年上の余裕うざい。
今すぐにでも追いかけてその腕をつかみたい衝動に駆られたが、何を言えばいいのかわからないから、やめた。
「……今度ソロ戦頼んでみたらどうです」
「そうだな」
俺が欲しいのは、努力する人間が好きだという範疇の感情ではないけどな。吐いた息に、目を細める。
「次に会ったら、手合せ願ってみよう」
少なくともその時間だけはきっと、なまえさんは俺だけを見てくれるのだから。
ジョーカーの天秤