朝から雨が降っていた。
大学へ行くために家を出る時には小雨だった。傘が嫌いな私は一縷の望みをかけて、タオルをバッグに突っ込んで外へ出た。
「……傘は」
あーあ、と空を見上げるコンビニの軒先。非情にもどんどん強くなっていく雨脚に負け、やっぱり傘を買おうかと入ったコンビニでは、既に傘は売り切れていた。
「風間」
バッグからタオルを取り出して髪を拭う。いっそ顔も一気に拭いてしまいたかったけど、化粧が落ちるなあと思いとどまった。既に雨のせいでどろどろになっているだろう顔面は、見る勇気がない。
そうこうしている内に、目の前で足を止めたその人物は、呆れたように息を吐く。
「ないのか」
「うん」
「傘嫌いも大概にしろ」
ため息を吐いて、風間がリュックから折りたたみ傘を取り出す。「用意いいね」感嘆してその真っ黒な折りたたみ傘を受け取ったら、風間は視線を逸らして「本当にな」と自嘲気味に吐き捨てた。
「風間、今日任務は?」
「夜に」
「雨止むといいね」
大学に通うために引っ越してきて知ったボーダーの働き。まさか同じ講義に、ボーダーの人がいるとは思っていなかった。
「…なまえ、お前今日自主休講しろ」
「……は?」
強くなっていくばかりの雨脚。折りたたみ傘から上がる激しい音に、時々びくりと肩が震える。
ボーダーの、しかもA級隊員を目の当たりにして畏怖と尊敬の眼差しを向ける男子生徒と、きゃあきゃあと色めきだっていた女子生徒を思い出す。あれは一番最初の講義の時だった。私はといえばボーダーという組織の情報に疎かったせいで、話に入れずただ首をかしげてそっと風間を盗み見ていた。
「……せめて、着替えて来い」
隣を歩く風間は、私を見ないでそう言った。覗いた耳が少し赤くて、はたと自分の胸元を見下ろしたら、白いカットソーが透けて中のキャミソールが丸見えになっていた。
「キャミだよ?」
「知ってる。だから何だ」
有無を言わせない響きに、いつかと同じように首をかしげる。見られても特に困らないと思う。それでも風間はこっちを見ない。
「……むっつり?」
「殴られたいらしいな」
「ウソです、ごめん」
目だけで振り向いた風間は恐ろしく、でも私の胸元を見るなり、風間らしくなく、焦ったようにまた視線をそらした。
どうしてこんなことになったのかな。風間の隣を歩きながら考える。
ざわつく雰囲気の中で、何がなんだかわからないでいる私が好都合だったのだろうとは思い当たる。
ある日少し遅刻してきた風間は、講義室内をぐるりと見回して、そして私の隣に座った。まだ私に友達はいなかった。
風間は私の方をちらりと見たあと、小さな声で「前回分のノートとってるか?」と、聞いてきた。
「…風邪ひくぞ」
それからなんだかんだとノートを貸すことが増えて、それが当たり前になって、試験前には一緒に勉強するようになって、近界民が出た時には誰よりも何よりも早くメールが来るようになった。私にはまだほとんど友達と言えるような人がいなかった。
「……帰っちゃおうかなあ」
「たまには俺がノート貸してやるから」
風間の紹介で初めて会った太刀川くんは、講義で見かけたことはなかった。同じ講義をとっていないんだろうなと思ったけど、必修科目ですら見かけたことがないので、少し心配になった。
「ありがとう」
風間と映画を見に行ったことがある。チケットを二枚貰ったんだと言っていた。友達も少なくて暇を持て余していた私は、思いがけず降ってきたお誘いにしっぽを振ってついて行った。新しい服が欲しいなと連れ回した先で、風間は私にワンピースを勧めてくれた。セール品だったから、喜びいさんで買った。お返しに風間に似合いそうなTシャツを勧めた。風間は笑ってそれを買った。
「……いい友達を持ったなあ」
ぽつりとつぶやく。しかし、その言葉に風間が勢いよくこちらを振り向いた。信じられないと言わんばかりの、驚いた顔をしている。バッグからタオルを取り出して、風間に差し出す。風間は眉間にシワを寄せて、固まっている。タオルを受け取ってくれないのを知って、またバッグにしまい込む。さっき自分でも使ったタオルは既に濡れていて、風間が受け取らなかったことに安堵する。
「風間?私今日は帰るね。傘借りてく」
「ああ、いや……待て」
瞬間、突風にさらわれた二人の傘は、嫌な音を立てて逆向きにひっくり返った。
「……」
「……」
「風間も休んじゃえば」
「ああ、…そうだな、」
なぜだかものすごく疲れた表情の風間が、傘を戻しながら返事した。風間のビニール傘は骨が折れているようだ。私も風間に倣って傘を戻したが、こちらも骨が折れていた。
「うちの方が近いよ」
「…お前なあ」
骨が折れていてもないよりはマシだ。折りたたみ傘は今度新しいのを買って返そう。バッグからスマホを取り出して、数少ない友人に代返をお願いする。友人からは『今日風間さんは?』と返事が来たので、『二人してびちゃびちゃになっちゃったから自主休講』と答える。『じゃあ彼氏に風間さんの代返してもらうよ〜今日は二人でのんびりしてなよ』そのありがたい申し出に、スマホの画面を風間に向ける。風間は一通り読んだ後、脱力した。
「風間?」
「行くぞ。なまえの家上がっていいんだろう」
「うん、お風呂入りなよ」
「………………そうだな」
長い沈黙を挟んでそう言った風間が、もう何度も来たことのある私のアパートに足を進める。
風間に太刀川くんを紹介された時、風間は『なまえだ』とだけ言った。太刀川くんは何か合点がいったような顔で、『よろしく』と笑った。
できたばかりの数少ない友人に風間を紹介する時、わたしも風間に倣って『風間、知ってると思うけど』とだけ言った。友人も合点がいったように、風間に『よろしくね』と言った。
「待ってて」
やがてついたアパートの玄関で風間を待たせて、大量のタオルを抱えて戻る。風間は「多すぎだ」と笑って、タオルの一枚を受けとった。
「なまえ、」
「うん?」
「これから覚えてろよ」
唐突な宣戦布告を背中に聞きながら、クローゼットに向かい合う。びちゃびちゃのカットソーを脱ぎ捨てて、ジーンズをホットパンツに着替えた私は、風間に貸すためのジャージを探している。
「なにを?」
「俺がはっきり言わなかったのが悪かった」
「なんの話?」
風間は靴下を脱いで、素足で部屋にいる。なんでかアンバランスに思えたけど口には出さず、ジャージを引っ張りだして風間に手渡す。
「俺は、なまえと付き合ってるつもりでいた」
ジーンズの裾から、フローリングに水たまりができていく。手渡したジャージを受け取った風間は、とても悲しそうな顔をしていた。
「…ごめん、知らなかった」
「さっき友達と言われた瞬間、耳を疑った」
二人で映画を見に行った。買い物に行った。そういえば、ふらふらとクレープ屋さんに引きよせられた私に、風間は手を握って窘めた。そのあと、たしか、手は繋いだままだった。風間の家で徹夜でレポートを仕上げたことがある。私の家で鍋をしたことがある。でも、
「だって、そんな雰囲気一度も感じたことがない」
「それは俺の落ち度だ。あまりにも自然に一緒にいられるから、それでいいと思っていた」
風間はそれだけいうと、お風呂の方へと歩いて行った。ジャージを抱えて、私を残して。
私はといえば、風間が残して行った小さな水たまりを、雑巾で拭きながら言われた意味を反芻することにした。
考えてみれば考えてみるほど、なるほどと思うところが沢山あった。友人からの返信しかり。風間が私の名前を呼び捨てるようになったのはいつだっただろうと思う。私は舞い上がっていた気がする。見知らぬ街で生活をスタートして、大学で初めてできた友達だったのだ。
「風呂、助かった」
「…風間、ごめん」
これまた唐突な謝罪に、風間が打ちのめされたような表情で、後ろ手に頭を引っかく。その様に少し罪悪感を感じて、おもわず風間が履いているジャージの裾を握った。
「一つだけ教えて」
珍しくはるか頭上にある風間の双眸。いつも通り無表情なはずなのに、漂う悲壮感に怖気づきそうになる。
「…なんだ」
「風間、私のこと好きなの」
風間がジャージのウエスト部分を両手で握って、うろたえたように視線を泳がせる。ぎゅうぎゅうと握ったジャージの裾に、腰あたりにパンツが覗いた。
「はなせ」
「答えて」
確かに、二人でいてもなんの違和感も感じていなかった。でも、付き合っていると思っていた割に、風間はキスだとか、それ以上だとか、そういうものを求めては来なかった。私の中の成人男子像とは明らかに正反対だ。
「…好きだよ」
真っ赤な顔で、顔を背けて、腕で口元を隠すようにした格好の風間が、くぐもった声で小さく言う。
「風間、どうしよう」
「…なんだ」
「嬉しいかもしれない」
嬉しい、それは本音だけど、実際にはもう少し複雑な気持ちだ。
風間は私の大学生活の友達第一号で、ノートの貸し借りや試験との格闘、遊んで、時々一緒に帰ったり、お昼はどちらともなく並んで学食へいって。
「でも、友達の風間も大切なの」
恋人になって、そして恋人でなくなったら、きっと友達には戻れないんだろうな、と頭をよぎる。それがとてつもなく悲しくて、さみしい。
「…知ってる。それでも好きだ」
「うん」
身を屈めた風間が、ゆっくりと両手を私に伸ばす。キスをされてしまったらどうしようかと身構えたけど、風間は私を優しく抱きしめた。
「いいんだ、ゆっくりで」
「…うん」
何故だか泣きたくなって、たぶん風間の方が泣きたい気持ちなんじゃないかと思うのに自然と涙がにじんで、風間の肩に額を押し付ける。
「すきだ」
何度目かわからない愛の告白に、私も風間を強く抱きしめる。
ハニームーンの誘惑