「なまえ先輩!」



短い黒髪を靡かせて、心なしか足早に近づいてくる少女に、なまえは笑顔で応えた。少女が髪の毛をそっと撫で付けて、なまえの前に立つ。


「木虎、久し振り」

「お久しぶりです。本部にいるなんて珍しいですね」

「性に合わないから、なるべく来たくないんだけどね」


ジャケットのポケットに手を突っ込んだ体勢で、なまえは壁のモニターを見上げた。木虎と呼ばれた少女もそれに倣ってモニターを見上げれば、モニターの中ではB級隊員がランク戦をしている。


「あ、あのなまえ先輩、何か飲まれますか?」


木虎の声が上ずって、なまえはゆっくりと木虎へと視線をやった。「奢るよ」なまえが穏やかにそう口にして、モニターに背を向ける。木虎はさっと赤く色づいた自らの頬を隠すように両手で顔を包み、なまえの後を追った。


「なまえ先輩、ランク戦を見に来たんじゃないんですか?」

「違うよ」


即答したなまえが後ろを振り返り、木虎は赤い顔を隠すように俯く。なまえは自分が木虎に慕われていることを十二分に理解して、前を向き直ると悪戯な色を乗せてからかい混じりに口を開いた。


「木虎に会いに」


木虎はとうとう困った顔をして、どうか振り向かないでと願いながらなまえの後ろをついていくしかできない。
やがて自動販売機が見え、木虎は心中でもう少しこのままでいたかったなとぼんやり思う。
わかりやすく、なまえに知られないようそっと唇を突き出して、不満を僅かに滲ませた。


「木虎、何がいい?」

「え、あ、なまえ先輩と同じものを」

「木虎はブラックコーヒー飲めないでしょう」


朗らかな顔でアイスティーのボタンを押したなまえが、自分のアイスコーヒーを片手に木虎に視線をやれば、木虎の表情はますます赤くなるばかりだ。空気がまるごと色づいたように、空間が明るくなったように、木虎は恥ずかしさや照れと同じくらいの喜びを表に出して頷く。


「覚えていて、下さったんですね」


なまえは素直に、かわいいな、と思う。
普段分かり易く敵意を表に出す対象に入るべき自分がここまで真っ直ぐに慕われていることに、なまえは苦笑いでアイスティーの缶を木虎に差し出した。


「覚えてるよ」


木虎のことなら。なまえは心中でだけそう続けて、木虎の指先が自分の方へとおずおずと伸ばされるのを心待ちにした。

木虎の方といえば、尊敬する先輩の、自分にはない穏やかさや、細やかや、優しさに背筋が伸びる思いで、高鳴る心臓に手を当て、缶をぶら下げるなまえの方へと手を伸ばす。


「木虎」

「はい」

「笑って」


木虎の指先が缶を捕らえ、そのアイスティーが自分のよく飲むものであることに感嘆しながら返事した木虎は、耳の先まで赤くして、缶を両手で大切に包み込んだ。

なまえは自分をかわいい後輩だと思ってくれているはず。高鳴る心臓に、一人その動悸の意味を自らに問いながら、彼女には珍しい、情けない表情でふにゃりと困ったように笑ってみせた。
それがなまえの要望であるなら、断る道理はないのだと信じた眼差しは、その表情に似つかわしくない。


「なまえ先輩」


以前、木虎はなまえに向かって、教えて欲しいことがあるんです、と言った。そのことをぼんやりとなまえは思い出す。
なまえの使用トリガーである弧月を使った攻撃のこと、攻撃を受けた場合の受身の取り方、好物、嫌いなもの、そして恋人の有無。
それらを思い出して、なまえは一人喉を鳴らして缶のプルトップに爪をかけた。


「あの、先輩は、ランク戦に出られないんですか?」

「...性に合わなくてね」


なまえは殊更優しい表情を浮かべて、木虎を見つめる。木虎は聞いてはいけなかったと察して、慌てて缶のプルトップに爪をかける。しかし震える指先と動揺のせいで、爪はうまく引っかからず、それがますます動揺を誘った。

その様子に、失敗したなと困った色を浮かべたなまえが木虎の方へ指先を伸ばし、缶を簡単に開けてみせた。


「なまえ先輩は、いつか、教えてくれますか」

「...いつか、木虎が知りたいことを全部教えてあげるよ」


有無を言わさない響きのある声で、なまえが俯く木虎の頭に手をやった。ぽんぽんと二度、優しく温かい手のひらが髪に触れ、木虎はなぜだか無性に泣きたい気分になる。

なまえの所属する隊は、チーム戦は一切行わない。皆単独で動く。隊である必要性を、周囲は全く感じない。木虎はそのことを一番に聞いてみたいと思う。好きなもの、嫌いなもの。これまでに聞いたすべてのことに、なまえは真剣には答えてくれなかった。そのことが木虎を苦しませる。

木虎はなまえのそばにいたいのだ。

そしてなまえは、木虎のそんな心情を十二分に理解している。そして手をこまねいて待っているのだ。後に引けない場所で、木虎の好きな穏やかな笑みで、飄々とした態度で、ひたすらに木虎を待ち侘びているのだ。


なまえは木虎を捕らえたいのだ。


「約束ですよ」

「うん。約束ね」


唇をつけていない缶を、大切に包む木虎の両手。なまえはコーヒーを一息に煽って、空き缶をゴミ箱に投げ入れた。


なまえはこれから、チームと言えるのか木虎にはわからない隊員たちの元へ戻るのだろう。


「じゃあ、またね。木虎」


泣きたい気持ちの木虎の横を、何も起こらなかったかのように通り過ぎるなまえ。ブーツのかかとが音を立てると同時にちらりとなまえの背中を気にした木虎は、なまえの使う甘さの混じった香水の香りに目眩をこらえる。


一度も振り返ってはくれないその背中に、木虎は手元の缶を見つめるばかり。




グリムの残像








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