「ダルいっすね」


唐突にそう口にした義人くんを、反射的に振り向いた。いつの間にか背後にいた彼に、学年も違うのになんでこんなところに、と思う。


「どうしたの」

「さっき放送で呼ばれてたでしょ」


私の所属する委員会への招集を聞きつけて、指定された教室へわざわざ来たという口ぶりで、義人くんが辺りを見回す。
そして私の前まで移動して、小さく首をかしげた。


「ほかの人はもう帰ったんすか」

「全員じゃないけどね」


数人は教師の元へ出向いている。私は冊子作りのために教室に残り、残りはほんの数枚だ。
一学年下の義人くんは、興味深げに資料に目をやった。


「なんかこういうの新鮮すわ」

「そう?」


ぺらりと書類の一部を手にとった義人くんが、まじまじとそれを眺めながら息を吐く。
義人くんはボーダーだから、委員会活動は免除されていると聞いたことがある。彼はそれをラッキーと口にしていたことがあったが、果たしてそれは本心だったのだろうか。


「なまえ先輩は、これ終わったら帰るんすか」


高校に入ってから、義人くんは私を先輩と言うようになった。そして、敬語を使うようになった。最初は学校であった時だけのことだったけど、最近では学校の外でも統一された。
私達はいわゆる幼なじみである。


「うん。全部終わったら顧問の机に置いていくだけ」

「じゃあ、一緒に帰りましょ」


僅かにめんどくさそうな空気を纏ってしゃべるのは、昔から変わっていない。敬語で話しかけられたあの日を思い出して、胸が痛んだ。義人くんはあの日、私との間に確かな壁を作った。


「今日は任務ないの?」

「あったら誘ってません」


いくつかの書類をまとめて、ホチキスでとめる。どう返事をしたものかと思案しているうちに、冊子作りは完了してしまった。
義人くんが積み上がる冊子を軽々持ち上げ、「どこに持ってくんですか」、そう、口にする。
随分と頼もしくなったものだ、と漠然と思った。


「すぐ、俺だってわかりました?」

「うん?」


自分の荷物をまとめて顔を上げれば、そこには真剣な眼差しの義人くんがいる。その質問が、突然ここへきて背後から私を声をかけたことだと思い当たって、少し驚いた。


「声ですぐ気づいたよ」

「そうすか」


そっけない言い方とは裏腹に、口元が綻んだのを見逃さなかった。
自分から壁を作ったはずなのに、突然どうしたと言うのだろう。何かあったの?と聞きたい衝動にかられたけど、それを簡単に口にするには距離が空いてしまったように思った。以前までならすんなりと聞けたんだろうな、そんなことを思って、ちょっとさみしくなる。

私の心中なんてまったく知らない義人くんが、「行きましょーか」と口にする。とても簡単に投げられた声に、違和感よりも懐かしさを感じた。


「国語科に持っていって」

「はーい」


バッグを肩にかけて、椅子から立ち上がる。義人くんはちらちらと後ろの私を気にしながら教室を出た。電気のスイッチを切って、私も義人くんの後に続く。扉を横に引けば、それはカラカラと軽い音を立ててきちんと閉じた。



「なまえ先輩」

「ん?」

「...なんでもないす」


義人くんの両腕に積まれた書類と、重そうな黒いリュックとを見比べて、顔を上げる。義人くんは私と目を合わせないためかはわからないけど丁度私が顔を上げたタイミングで顔を背けて、廊下を歩き始めた。


「義人くん」


幼なじみ。そして義人くんはボーダーになった。距離をあけてみてみれば、もうそこに私の知る義人くんはいない。男の子の思春期とはそういうものなのだろうと思う。また少し胸が痛んだ。できれば、あのままでいたかった。


「なんですか」

「...なんでもない」



*



国語科の担当教師の机に資料を置いたら、義人くんが息を吐いて腕をさすった。赤い跡がついている。室内のほかの先生が、「こんなとこにいるなんて珍しいな」と義人くんをまじまじと見つめてなんの気なしに口にする。
義人くんはと言えば、妙にかしこまった表情で、目だけで笑ってみせた。


「...さみしいの?」


国語科を後にした廊下は、しんと静まり返っていた。時々校内に残る生徒の笑い声が聞こえる。外からは部活道に精を出す生徒の声が聞こえる。窓から入ってくる空気が気持ちよかった。


「...なまえ先輩にはかないません」


お手上げです、というジェスチャーでおどけてみせた義人くんが、真面目な顔になって私に向かい合う。


「俺、なまえ先輩を女として扱いたかったんです」


窓の外の眼下では砂埃を巻き上げながら、男子生徒が汗をキラキラと輝かせながら走り回っている。

窓枠に肘をついて、言われた意味を考えたけれど、今この状況とはどうしても繋がらない。首をかしげて微笑んだら、義人くんの耳の先が少しだけ赤くなった。


「まだ、俺たちは幼なじみですか」


あまりにも真剣な眼差しに、私のほうが参ってしまいそうだ。

義人くんは手をポケットに突っ込んで、俯いた。そして私の表情を伺うように、時々ちらりと視線だけを上げる。
自信なさげな視線は記憶にあって、懐かしさが体にじわりと広がった。


「私、義人くんが好きだった」

「......」

「先輩って呼ばれるようになって、敬語で話しかけられて、ほとんど会わなくなるまでは、好きだったの」


私達は幼なじみである。

義人くんの切羽詰った表情が泣きそうに歪んだ。
言われた意味と義人くんの表情から導き出した答えは、私には到底信じられないものだ。
義人くんから視線をそらして、もう一度、はっきりと口にする。


「好きだったんだよ」


義人くんがうなだれる気配がした。近くて遠い幼なじみ。先に幼なじみであることから離れたのは義人くん。私はそれを咎めなかった。


「今は?」


だから私は、義人くんに対して今、非情にならなければいけないのだ。もしも先輩と呼ばれたときに『変なの』と笑えていたら、もしも敬語で話しかけられたときに『違和感があるからやめて』と言えていたら、もしもほとんど会わなくなったときに『たまには遊ぼう』と誘えていたら、そうしたら違った結末があったのかもしれない。


「私を一度捨てた人間に、何を言えっていうの」


義人くんの吐く息が震えた。

いつの間にかポケットから出ていたゴツゴツした手のひらが、私の体の横にぶら下がる指先に触れる。横目に義人くんをみやったら、義人くんは絶望したように蒼白の表情で私の指先を見つめていた。


「なまえ、ちゃん」

「もう遅い」


絶望のままの義人くんに、思わず笑ってしまう。
義人くんは学生だ。私も学生だ。それでも義人くんが背負うものは私よりも随分と大きい。私には人の命は背負えない。
そこから言うと、義人くんはアンバランスに育ってしまったように私からは見える。


「なまえ...せ、ちゃん」

「無理しなくていいよ。義人くんが望んだように、これからも先輩と後輩としていい距離感で仲良くしていこう」


義人くんがそれを望んでいないことを知りつつ、笑って、なんでもない顔をして向き直る。返事をしない義人くんに、かわいそうとは思いつつもきちんと追い討ちをかけてあげるのは、私の中では非情というよりも優しさだ。


「義人くんは、間違えたんだよ」


先輩と呼ぶ、敬語で話す、距離を取る。その全ては、私を幼なじみではなく女として扱うための準備だった。そして空いた距離を詰めて、きちんと男になった自分にときめいて欲しかったのだろうか。
その子供っぽさに安堵して、まだ私の指先に触れたままの義人くんに、諭すように努めて優しく声をかけた。


「...もう戻れないんすか」

「残念ながら。ねえ、義人くん」


泣きそうな顔で、義人くんが顔を上げる。
さっきまで義人くんが触れていた指先で、瞳にかかる前髪をよけてあげた。目尻が赤い。


「一緒に帰るっていうの、やめようね」


肩にかけていたバッグを、勢いをつけてかけ直した。ほんの少し後ろ髪をひかれながら、義人くんに背を向ける。

幼なじみであることは消えない。
消えないものを消そうとして、そこに新しい関係を代わりに当てはめようだなんて、子供じみているにもほどがある。

義人くんの代わりなんて、他にはいないのだ。それでも、あの頃笑いあってた義人くんは、もう私の手の届かないところにいる。




断崖








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