「姉さん、荷物はもうまとめたのか?」

「うん」


心待ちにしていたような、この日が来るのが怖かったような、そんな不思議な気持ちで迎えた退院の日。秀次は病室にやってきた時から嬉しそうに、家の大掃除をしたことや、買いすぎた食材のことを話してくれた。


「じゃあ、挨拶して帰ろう」


一体どれくらい私はここで眠っていたのだろうか。それは、看護師も医者も秀次も、誰一人として教えてくれなかった。


「待って、お会計は?」

「もう済ませた」


スキップでもしそうな程嬉しそうに笑う秀次が、まとめた私の荷物を肩にかける。
まとめた荷物のほとんどは、私が眠っている間に秀次が揃えてくれたものだ。
それらを詰め込んだ大きなバッグを肩にかける背中が想像よりも広く感じて、私はそれを成長を感じているのだと、素直に思って納得した。


「高かったでしょう」

「大丈夫だ、働いてるから」


黒い制服に見を包む秀次は、どこからどう見ても学生だ。アルバイトをしているのだとしても、長い入院費用をまとめて支払えるほど余裕があるだろうか。

病室の扉に手をかけた秀次がちらりと私を見やって、そして「俺、ボーダーだから」、そう、口にした。


「...ボーダー?すごいのね」


ボーダーのことも近界民のことも、生活に必要なことは全て覚えていた私に、秀次は以前『そういうものらしいよ』となんでもない風に言った。その言葉には納得するしかなかったし、なんでもない風に言ってくれるのが、心から安心できた。


「...そうでもないよ」


それでも、近界民の話題を出すと暗く陰る表情。突っ込んで聞けるような雰囲気ではない、憎悪が滲む空気。想像するしかないその背景は、家族や友人を失ったことにあるのだろうと想像する。そして、残ったたった一人の家族も長く病院で目覚めずにいたのだ。


「そう...、でも、あんまり危ないことはしないで」


一人にしないで。

目が覚めた時の喪失感が心にじわりと広がった。私が誰も覚えていないために、誰も本当は私を知らないのではないかという不安。そのぽっかりと開いた心の穴を埋めようとする喪失感、不安感、孤独感を押しのけて穴を塞いでくれたのは、秀次の存在だったのだ。


「ああ」


秀次が殊更嬉しそうに笑い、そして扉を開け放つ。久しぶりに目の当たりにした病室の外の世界は、心なしか清々しく、眩しいように思った。
靴の底が響く。秀次が家から持ってきたワンピースを身に付け、靴を履く。靴は少しきついような気がして、それを率直に秀次に告げたら、秀次は『寝ている間にきつくなったのかもな』と微笑んで、『週末買いに行こう、付き合うから』とほんの少し悪戯な表情で言った。


「なんか、不思議な感じ」

「なにが?」

「こうして歩いてること」


隣には秀次がいる。通りすがる入院患者や見舞い客、足早に過ぎていく看護師。リハビリで何度か看護師に付き添われて通ったはずの通路が、新鮮さを持って私を迎え入れる。


「俺は、ずっとこんな日を待ってた」


迷いなく隣を歩く秀次の横顔を盗み見れば、秀次は晴れ晴れとした表情で、真っ直ぐに前を向いていた。その短いフレーズに込められた意味を考えて、思わず涙が滲みそうになる。秀次はずっと、長い間待っていたのだと、よくわかる言葉だった。

ナースステーションで挨拶を済ませ、一際明るいエントランスの向こうに、まだそんなに眩しくはないというのに思わず日差しを遮るように手で目の上に傘を作って顔を顰める。私を振り向いた秀次が、自分で持ってきた紙袋から日傘を取り出して、当たり前のようにこちらへと差し出した。


「ありがとう」


目が覚めてからこの日を迎える間に、秀次はいくつかのことを私に頼んだ。そのうちの二つを思い返し、孤独に苛まれていたであろう秀次の心中を想像する。秀次は私に、『名前を呼び捨てにしてほしい』、『敬語は使わないで欲しい』と言った。
秀次が一人抱えてきた気持ちを考えれば、その頼みは私にとって瑣末なことだった。さみしい思いをさせた分、私はこれから秀次が笑顔で過ごせるように頼みがあるならなるべく聞いてあげたいと思う。

そうだ。私達はこの世に二人の姉弟なのだから。

エントランスを出たところで立ち止まる。むき出しの足首を撫でる空気は、夏の気配を帯びていた。手渡された日傘を開き、湿気を含んで舞い上がる外の世界へと、私がついてくるのを穏やかな表情で待つ秀次の元へ、ゆっくりと足を踏み出した。





群青 - 2-
世界はいつも美しい








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