真っ白で無機質な天井。糊のきいた真っ白い掛け布団を退けて上半身を起こす。真っ白なシーツ、枕カバー。備え付けのモニターと、淡い木目の棚と冷蔵庫。左腕から伸びる細い管は点滴バッグへと繋がっている。

否応なく、ここが病院だということがわかる。そして、視界に広がるのはソファや、ポットなどが置かれた棚。この部屋には誰もいない。そのことから、ここが個室だということがわかった。


「姉さん?」


声をした方に顔を向けたら、そこには黒髪の男の子が驚いたようにこちらを見ていて、そして途端に泣き笑いのような表情を浮かべて小走りに寄ってきた。


「よかった。目が覚めたんだ...!」


男の子が涙目で私の手を握る。彼の手から落ちた紙袋の中からは、まだ封がされた化粧水やリップクリームが転がった。


「待って、」


長くしゃべることを忘れていたのだろうか。喉が張り付いたように、声は妙にうわずって掠れる。男の子はそれに気づいたのか、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して、棚のコップへと注いでくれる。


「あなたは、だれ、ですか」


受け取ったコップを握って、彼の目を見つめる。茶色がかった紫が印象的な、とてもきれいな色が涙で潤んでいる。その瞳が僅かに悲しそうに揺れて、彼はもう一度私の手を握って、そして額を私の肩にあずけるような体勢で声を震わせた。


「俺は、秀次。あなたの弟だ」


私に弟なんていたのだろうか。
ぼんやりと、まるで焦点の合わない視界でテレビを見ているような気持ちで思う。
それでも私にしがみつくように体を震わせる彼は、確かに弟なのだろう。そうでなければこんなに容易く弱さを見せないだろう。

途端に目眩がして、手に持ったままのコップを落としてしまった。ベッドに広がった冷たさに思わず声をあげたら私の弟を名乗る男の子が顔を上げ、慌てたように「ごめん」と小さな声で言ってナースコールのボタンを押した。


「姉さん、何も覚えてない?」


複雑そうに微笑むその腕がだらりと、濡れたベッドに落ちる。思わずそれに手を伸ばして拾い上げたら、彼はほっとしたように息を吐き、眉をハの字のままにして目を細めて微笑んだ。

やがてやってきたナースも、起き上がる私を見て驚いたような表情で、忙しなくPHSを使ってどこかへ連絡した。彼女は彼に視線を向け、「よかったわね」と笑う。家族の実感はないけれど、やはり姉弟なのだろうな、と漠然と思う。


*


「一種の記憶障害だって」


目が覚めてから連日続いた検査も2日前に終わり、日を空けずに病院へやってくる男の子は、その日思いのほかすっきりとした声と表情でそう告げた。

その様子を不思議な気持ちで眺めながら、彼が買ってきてくれたコスメブランドの紙袋に視線をやる。目が覚めた日に彼が持ってきてくれた紙袋だ。中身は既に棚に並び、私も素直にそれを使っている。年頃の男の子が買うには気恥ずかしいだろういくつかのアイテムに順に視線をやれば、それは幾分か私の心を穏やかにさせた。


「近界民の侵攻で姉さんは大怪我を負って、それで一時期の分の記憶がなくなっているんだろうって」

「そう、そうなんですか...?」


言われてみたら、記憶はどこかぼんやりと靄がかかったようにはっきりとしない。それどころか、大怪我をしたことも覚えていない。なるほど、確かに私は記憶を失っているようだ。

無意識に、綺麗な形のリップグロスに手を伸ばした。その形を指先で撫でながら、小さく息を吐く。


「目が覚めて、私が目覚めるのを待っててくれた人が居て、嬉しい、です」


素直な気持ちを口にしたら、彼はまた泣き笑いの表情で「よかった」と呟いた。


「でも、早く思い出して欲しいですよね」

「いや、それはいいんだ」


リップグロスを片手で握り締めながら、はっきりとした声で言う彼を見つめる。彼は私に記憶障害だと告げた時と同じように、とてもすっきりとした声と表情で、目尻に滲んだ涙を乱暴に擦る。


「え、でも...」

「今までのことは、忘れてもいい。これから一緒にいて知っていってくれたら、俺はそれ以上は望まない」


意志の強い眼差しが真っ直ぐに注がれる。

目が覚めて彼が弟だと名乗ってから、ずっと思い出さなければと思ってきた。彼はその後のお見舞いで、『家族二人きり』と言った。だからこそ、他のことはさておき、彼のことだけでも思い出してあげなければと思っていたのだ。

しかし彼は思い出さなくてもいいと言う。微妙な違和感を感じて彼を見つめ返したら、彼は困ったように微笑んで、手をポケットに突っ込んだ体勢でまぶたを伏せた。


「だって、思い出せって言っても姉さんが辛いだけだ。俺は姉さんが生きてて、目を覚ましてくれただけで、嬉しい」


ああ、彼は本当に私の『弟』だ。
さっき、感じた違和感は取るに足らないものだったのだろう。

彼はずっと、私を気遣っていたのだ。だからこそ自分の中で答えを出して、今私の前ではっきりとした態度で向かい合ってくれている。


「ありがとう、...秀次」


目が覚めてから初めて呼んだ彼の名に、彼が涙を零して喜んだのを、私は一生忘れない。




群青 -1-
混沌から目覚めた日








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