ふと気づいた時には、もう彼女は普段の彼女ではなくなっていた。


「なまえ、どうした?」

「……」


努めて朗らかに訊ねたが、彼女は少し茶色がかった瞳を細めて無表情でこっちに一瞥をくれて、そして手元のノートPCに視線を戻した。

カチャカチャと軽くキーを叩く音が響くリビング。このアパートは彼女の家だ。

ある時は化粧台、ある時は食卓、ある時はデスクになるローテーブルの向かい側、点けっぱなしのテレビ中ではかわいいアナウンサーが今日の出来事をニコニコと話している。


「なあ、何か怒ってんの?」

「そうだね」


食い気味で返ってきた答えに、ほんの少し安心した。ここで「別に」とでも言われたら、俺は完全にお手上げだった。


「じゃあ、何を怒ってんの?」

「自分で考えて」


さっきとは異なり、彼女はこっちを見ずにパソコンだけを見つめている。


「なあ」

「太刀川、レポートは?」

「……まだ」


彼女の手元に揃えられた大学の蔵書のいくつか。カラフルなポストイットが踊るそれを、彼女が時折捲る。


「何年在籍するつもりか知らないけど、限度があることはお忘れなく」


書きたい一文を思いついたのだろう。彼女の指先が淀みなく、キーを叩き始めた。


「なあ、何をそんなに怒ってるんだよ」


無言。彼女はついさっきまでの可愛らしさを完全に封印した体で真剣にレポートに向き合っている。
その格好は余韻の残る、Tシャツに下半身は下着だけという倒錯的なものだというのに。


「なまえ、なまえちゃん」


できるだけ甘く呼んだつもりだが、彼女は完全に黙殺するつもりらしい。

その内に息を吐いて、キーを一度叩いて顔をあげた。


「...もういいのか?」

「提出したから」


そして彼女はやおら立ち上がり、俺が脱がせて散らかした服を一枚一枚身につけ始める。


「帰るつもりか?」

「ヤりたいだけならほかの女で充分でしょ」


端的に告げられた怒りの原因に、ようやく合点がいった。
つまり彼女は何らかの俺の言動によって、自分が彼女というよりただのセフレのような扱いを受けていると感じたのだろう。


「予定が空いたから会おうっつって、ヤったのが嫌だったのか」

「久しぶりに会うんだから、太刀川が私としたいって言うなら私だって、」


彼女がうっかり口を滑らせたのは、その表情を見てよくわかった。言うつもりがなかったのだろう発言はあまりにもかわいくて、思わず彼女に腕を伸ばす。

一瞬身構えてこっちを睨んだ彼女だったが、触れた途端に諦めたように項垂れてみせた。
漂うきまずい空気に、掴んだ腕を引き寄せる。


「なまえ、こっち向いて」

「先に私に背中を向けたのは太刀川でしょ」


引き寄せられるままにこっちに崩れ落ちた彼女の体を支え、表情を隠すように落ちた髪の毛を撫でる。


「...そうだったか?」

「ヤって、終わって、すぐ背中向けたじゃん」


咎める声音の、小さな抗議。胸に抱えた頭に力を込めたら鼻をすする音が聞こえて、言いようのない罪悪感に襲われた。

言われてもなお、そうだったか?と心中によぎる。たぶん、それを言ったら今度は引っぱたかれて、それで彼女はさっさとここを出ていくだろう。それくらいはわかる。


「悪かった」

「嘘つき、覚えてないくせに」


俺が疎いだけなのか、彼女が殊更聡いのかもわからない。

ただ、わかるのは、彼女のご機嫌をとるタイミングは今しかないということだけ。我ながら打算的で、ボーダーの奴らには知られなくねえなと思う。


「...覚えてない。悪い」

「...太刀川のそういうところ、すきだよ」

「俺はお前のそういうところが好きだよ」


とにもかくにも、彼女の機嫌は戻ったように見えた。
その証拠に、すくい上げるように彼女の唇に自分の唇を合わせたら、彼女は小さく口を開いて受け入れてくれる。


「あ、だめだ、やめとこう」


ひとしきりお互いに口内をあそんで、二人の唇が唾液でてらてらと光るその様に、体の奥からふつふつと湧いてくる衝動。
この流れで押し倒したら、また機嫌を損ねるかもしれない。そんなことはできない。


「太刀川がしたいなら、」


それでも、恥ずかしそうに俺の首に腕を回す彼女に、俺はいつも通りあっけなく陥落してしまうのだ。




みちしるべ



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ダメ男っぷりがうまく描けません。







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