「あの、か、」


習慣化した深夜の訓練室での逢瀬。逢瀬というには些か色気のない、フリー戦である。

今日も彼女は彼に負け、そして涙の滲む瞳で立ち上がった。


「まだやるか?」

「かざ、」

「?なんだ」

「……」


乱れた彼女の息遣いに、彼はほんの少し粟立った。しかしここは訓練室であって、目の前には真剣な面持ちの対戦相手がいる。昨晩の情愛を思い出して居た堪れない気分になっていることなど、彼女には知られてはならない。


「なまえ?」

「カツカレー、食べますか」


余りにも唐突な誘いに、一瞬彼の反応が遅れた。負けて立ち上がってまた負けて、そんなことを繰り返した深夜、よろよろと立ち上がった彼女の耳の先が微かに赤い。


「確かに、カツカレーは好物だ、」

「...練習、」


ぱっと明るくなった彼女の表情に、彼はまだ現状を理解できていない。

彼女が彼の告白を受け入れて、気持ちを伝えて、正式に交際を開始してからというもの、彼は時折悩まされることが増えた。
それは気まぐれに彼女が彼への好意を表に出すためだ。


「練習?」

「れんしゅう、したんです」


それは周囲に人がいようがいまいが構わずに発揮される。大体は素っ気なかったり、気まずそうだったり、とにかく彼にとっては少々物足りない仕草で応えるが、何故か時々、彼女は彼に甘えるような仕草や発言をして、彼を全力で振り回す。


「そ、うか」


しかしいくら悩まされても振り回されても、彼はそれを内心で大いに喜ぶ。さすがに周囲に人がいるときにはどうかと思うし、どうせなら二人きりの時に存分に甘えて欲しいと願うが、それはそれである。


「だから、今日も行っていいですか」

「ああ」


だからこそ、彼は二つ返事で即答する。

彼女から近づいて、あわよくば触れてくれたらいいと思っているからだ。彼は優秀であるが、その身体は健全な21歳のそれである。



*


あまり使わず手入れのされていないキッチンに立つ彼女に、彼はゆるむ口元をとても不自然な動作で隠した。

本部から家までの道すがら、二人で寄ったコンビニでひとつのカゴに二人で商品を投げ込んだことを思い出し、彼は今度はわざとらしい咳払いを数度して、横目に彼女を盗み見る。


「できそうか」

「がんばります」


とかく、近頃のコンビニは品揃えがいい。カレールーも玉ねぎもじゃがいももにんじんも、卵も小麦粉もパン粉も手に入った。米だけは置いてなく、自宅に買い置きもなかったため、レンジでチンするタイプのご飯を購入した。

あとは、いるいらないと問答して結局買うことになった、彼女おすすめのプリンが二つと、アイスと、スナック菓子。

彼女が持参したカツ用の豚肉すら、彼と彼の家の周辺地域を思ってのことだろうと、彼はそのあまりにもカップルらしい行動を思い返しては頭を抱えた。



*



「カツが、焦げました」


その内に漂ってきて食欲を誘うカレーの匂いに自然と浮き足立っていた彼は、まだ見ぬカツになるはずだった豚肉に心底同情した。

さほど興味のないふうを装って大学のレポート作成に取り掛かっていた彼の鼻を、刺激したのは、カレーと、香ばしい以上にボヤでも起こしたかと疑うほどの臭いだった。


「気づいていた」

「ですよね」


でもカレーはぶじだから、たぶん、と続ける彼女に、彼は取り掛かっていたレポート作成を横に除けて、食卓の用意を始めた。



*



「折角なので、のせてみました」


一体何が折角だと言うのだろうか。

失敗したと自認している真っ黒なカツを堂々とカレーライスにのせた彼女は、心なしか誇らしげだ。

彼の目前には、カツが黒くなければおいしそうなカツカレーがある。スプーンを片手に、彼はその理解に苦しむ現状に首を傾げた。


「...黒いな」

「カツカレーを作るって、言ってしまった手前...」


彼女が少し気まずそうに縮こまって彼から視線をそらした。膝の上に揃えられた手の、その指先にはいくつかの絆創膏がベタに鎮座している。


「...いただきます」

「はい、」


好奇心か感想を待ちきれない様子の彼女は、スプーンを持ったままちらちらと彼の方を伺う。彼がカレーを食べて感想をいうまで、自分も食べないつもりだろうか。

それを人は毒見という。


「……」


盛大なプレッシャーの中、彼がカレーライスをひとすくい、口に運んだ。もぐもぐと咀嚼し、そして飲み込んだ。

緊張感がピークである。


「カレーは、うまい」

「まあ、カレールウですからね!」


しかし安堵の表情を浮かべた彼女が、こともあろうに焦げたカツをスプーンにすくった。


「風間さんは、そのカツは飾りだとおもってください。カツの無念は私がひきうけます」


彼女の感情移入がすぎるのは、人間相手だけとはいいきれないのかもしれない。彼の心中をよぎる一抹の不安をよそに、彼女は真っ黒なカツをひと切れ、口に放り込んだ。

彼が少し慌てて、グラスに水を注ぐ。


「……う、」


見る見るうちに彼女の瞳を薄い水膜が覆う。ともすれば今にもぼろぼろとこぼれてしまいそうな涙に、彼女は唇をかんで耐えているようだ。


「...いいから、吐き出せ」


その様に思わずゆるんだ口元を隠そうともせず、彼は微笑む格好のままでティッシュの数枚を手に彼女の頬に手を当てた。


「ご、めんなさい」

「努力は認める」

「おいしく、つくりたかった」

「知ってる」

「かざまさんに、食べて欲しかったの」


これ以上ないほどの破顔一笑。ボーダーの誰一人として想像できない、彼の困り眉と笑顔に、彼女はとうとう大粒の涙をこぼした。


「風間さんは、どうしてそんなにやさしいんですか」

「……勘違いするなよ、なまえだけだ」


彼女の全身の力が抜けて、どうにか飲み込めた焦げの塊に、彼女が大きく息を吐く。


「うん、...しってる」


どうにもこうにも困ったことに、彼は彼女を甘やかす。彼女を知る度に掻き立てられる庇護欲を、彼は持て余していない。

素直にその庇護欲を彼女に向ける。彼女はそれを一身に浴びながら、本人は意図せず、まるで花が開くように羽化する。


「……食うぞ」


彼はため息で覚悟を決めると、彼女と同じように、真っ黒な塊のひと切れを口に放り込んだ。





彼と彼女のワルツ






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