「烏間先生」


小脇にA4サイズの茶封筒を抱えた女が、手を小さく振って黒い車の後部座席から降り立った。


「...」


不機嫌をまざまざと表に出して、スーツ姿の烏間が右手を放るように差し出す。

女はそれを満足げにじっくりと眺めてから、現在授業が行われているのであろう方向を見やり、ため息を吐いて笑った。


「いいじゃない。普段から先生って呼ばれてるんでしょう?」

「鬱陶しいからさっさとそれだけ置いて戻れ」

「ひどーい」


烏間が差し出した手を下ろすのと同時、昨日遅くに降った雨のせいでぬかるんだ土に、女のヒールが僅かに沈む。ぐらりと揺れた腰に、烏間は一瞬庇いそうに足を踏み出したが、目前の女がそんなことで地に倒れるはずもなく、踏み込んだ烏間の足になんて全く気づいていないような素振りでその細い瞳を一瞥した。


「進捗は芳しくない様だって」

「...いや、状態はいい」

「あっそ。」


さして興味がなさそうに、女が茶封筒を手に取り直して、封を開ける。その動作を止めず、つやつやと光る唇から、烏間に受け渡す必要のある書類に関する説明が淀みなく紡がれる。


「興味がないなら聞くな」

「まあ、人って上に行けば行くほど悲観的になるらしいから、最初から上の言うことなんて真に受けてないのよ」


封筒の中身を一枚ずつ確認し、一通りの説明を終えた女は、もう一度古い校舎があるはずの山の上を見上げた。その眼差しにほんの少しの苛立ちを滲ませて、再び、今度はそっと息を吐いた。


「なまえ?」

「...ねえ、わかっててやってるの?」

「……何のことだかわからんな」

「あ、そ」


最初から望む返答を期待していなかった色を含んだ、普段と変わらない声。烏間は何故だか無性に、今女の名前を呼んだことを後悔した。


「すぐ戻るのか」

「そうね。誰かさんよりは忙しくないけど、それなりにやることが山積してるから」


女が封筒を烏間に向ける。早く受け取れと、視線だけが示す。有無を言わせない回答に、烏間の眉間の皺が深くなった。

大人しく封筒を受け取り、視線を落として自分でもその中身を検める。


「...そうか」

「烏間は、いつ防衛省に戻ってくるのかしら」


ふ、と。烏間が返事をしようと顔を上げる。女の視線の先にいたのは、烏間ではなく、木々に隠された校舎だった。否、恐らく校舎なのだろう。舗装されていない細い道が上へと続く。


そして烏間はすぐに、女がそもそも返事を求めていなかったことに気づいた。


女がゆっくり瞼を伏せて、お気に入りのヒールを汚す泥を小さく蹴る。僅かな泥が烏間のスーツの裾に飛んで、女はまた少し満足したように顔を上げた。


「じゃあ、戻るわ」

「ああ」


こんなことをいつまで、あと何回繰り返せば終わるのだろうか。二人ともがその糸口を掴めないまま、視線を通わせた。


烏間がここへ来るまでは、二人はほぼ毎日と言っていいくらい顔を合わせて仕事をしていた。そして烏丸がここへ来てからは、全く合う必要がなくなった。


近すぎる距離に阻まれ、遠く離れすぎた距離に阻まれ、二人は既に心底うんざりしていたし、疲れきっていた。


それでも烏間は時々省に戻るし、女を呼びつける。女も用事を見つけては烏間にコンタクトを取るし、山のふもとへ足を伸ばす。

どちらとも、その理由を告げることはなく。


「...体には気をつけて」

「なまえも」


柄にも無く滲む手汗のせいで烏間の手元の茶封筒の角は色が変わって、強く握る指の跡が付いている。


「ねえ、わかってる?」


次に女が確かめたそれは、烏間は予期していない問い掛けだった。

その答えは持ち合わせていない。いつも通りの中途半端な駆け引きの応酬の一端だろうかと表情を曇らせる。


女の唇が、弧を描いた。


「今度こそもう行くから」


あっけなく、女は来た時と同じようにのんびりとした仕草で車の後部座席に乗り込んだ。

運転席の男がウィンドウの向こうで会釈をして、呆気なく車のエンジンがかけられた。


「余韻に浸る時間もねえ」


ぽつんと、ぬかるんだ泥と湿った空気に吸収された低い声。黒い窓ガラス越し、読唇した女の体の中心がじくりと軋む。


烏間はゆっくりと発進した車を引き止める術を持ち合わせていない。


封筒の奥底、まるで女の心の中のように押し込まれた、早く気づけどうかこのまま気づかないでと祈るように小さな小さな、その、真っ赤な薔薇のひとひらに、烏間はまだ気付かずにいるのだ。




手許に残したアイラブユー


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n番煎じのオチ(台無し)



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