バイト先から玉狛へ向かう途中、スーツ姿の薄い背中がコンクリートにへたり込んでいた。
俯いた頭に、右足に当てた白い手が震えていたから、声をかけたのは人として当然のことだと思う。
「どうかしたんですか」
揺れた眼差しがこちらを見上げ、濡れたまつげに縁どられた黒い瞳が印象的だった。
俺を見上げた彼女が一言も発さないまままっすぐに俺を見つめ、そして、赤い唇を開く。
「きみは、いくら?」
「……は?」
「いくら出したら、今晩一緒にいてくれる?」
よれたスーツ、手が当てられていた右足は、ストッキングが盛大に破け、血が滲んでいる。
「転んだんですか」
「...、そう、躓いたの」
「まあ、とりあえず、」
手を差し出してはみたものの、彼女は一向に立ち上がる気配がない。
落ちたバッグ、中から溢れる財布とスマホと鍵、彼女は俺の手とそれらを見比べて、そして財布を手にとった。
「今夜、一緒にいてほしい」
彼女は濡れたまつげを伏せて、財布から一万円札を数枚取り出して、あろうことか彼女のために差し出した俺の手に置いた。
「...そういう、意味じゃ」
「嫌なら、いいの、」
「嫌ではないんですけど...」
その声があまりにもさみしげに震えるから、思わず、ほんの少し食い気味に彼女に返事をしてしまう。
真っ直ぐに俺を見上げる彼女は、少し何かを待ってから、花のようにわらった。
*
「制服、似合うのね」
「そうですか?」
制服に対して、似合うとか似合わないとかは考えたことがない。当たり前に着なければいけない服だから、彼女の懐かしむような色が込められた声に対してほとんど流すように、放り投げるように返す。
「ねえ、」
「はい」
「脱がしてもいい?」
「...は?」
防衛任務が終わって、律儀に向かった先は彼女が『夜を一緒に過ごしてくれるならきて』と告げたカフェだった。
そこから二人とも無言で、数センチの距離を置いてとなりを歩いた。
ここは彼女のマンションだ。
「...足りないなら、追加で払う」
部屋着に着替えた彼女がのそのそと這いずって、帰宅するなり放り投げたバッグに手を伸ばす。
金を受け取ってしまったから、OKともNOとも言えなかったから、カフェで金を返せばよかったのに、彼女が俺を見つけて安心したように笑ったから。
「脱がすだけですか」
「その先も、していいの?」
彼女が財布を開いて、また数枚の一万円札を取り出す。手を出すべきか出さざるべきか迷う俺に、彼女は困ったようにまた笑った。
金を受け取れば、俺は彼女と利害が一致したビジネスの関係になる、俺が金を受け取らなければ、その関係は何だっていうのだろうか。
「とりあえず金は、あとで」
それでもこの体の中身は健全な高校生であって、目の前に差し出された据え膳はどうしようもなく、魅力的に映ってしまった。
*
「、ぁっん!」
「...ここですか」
シャワーを浴びていない体は、汗でべたつく。彼女の首筋を舐めたら、高価そうな香水の匂いがした。
「もっと...」
「もっと?」
人差し指と中指を彼女の胎内に押し入れて、緩やかな抽挿を繰り返す。親指で努めて優しく陰核を押しつぶす度に跳ねる腰があまりにも柔らかくて、思わず彼女の乳首に歯を立てた。
「もっと、酷くして」
彼女は、泣いているようだ。
痛いからだろうか。本当は行きずりの男とセックスなんてしたくなかったからではないだろうか。
それでも、彼女の細い指は俺の陰茎に巻き付いて、扱いたり先っぽを親指の腹で撫でたり、裏筋をなぞったりとその動きが止まることはない。
「目、開けてください」
固く閉じられた瞼。目尻から伝う涙。何故だか無性にあの、濡れた黒い瞳が見たくなって、彼女の前髪を指先で払った。
震えるまぶたから、ゆっくりと現れた双眸が俺を真っ直ぐに見つめる。
頼りなさげに、途方に暮れたような表情で、一度小さく息を吐いて、そして彼女の指先は自らの胎内へとペニスの先を導いた。
「ん...」
「……っ」
飲み込むように蠢く内壁は、驚くほど柔らかく、キツくて、熱い。
じっとりと汗ばんだ体が酷く熱い。
「酷いセックスなんて、したこと、ありませんよ、」
俺の下で、びっくりしたように見開かれた目がゆっくり細められた。
「じゃあ、優しいセックスをして」
*
「いくら必要?」
彼女が、水がたっぷり入ったペットボトルを渡してきてそう口にした。
形容し難い脱力感と解放感とが体の中でごちゃまぜになって、頭の芯がぼうっとする。
「ああ...」
そういえばそんな話だったな、と他人事のように思う。受け取った水を首の後ろに当てれば、幾分か思考がはっきりした。
「聞いてる?」
「聞いてますよ。そもそも、聞きたいことが沢山あるんですが」
彼女は首をかしげて、手持ち無沙汰に右足をさする。指の間から、大きな絆創膏が覗く。
ガーゼ部分に血が滲んでいるのがわかって、俺の足まで痛む気がした。
「なんでこんなことしたんですか」
「お金で君を買ったこと?」
その唇は明朗で簡潔な事実を告げた。はいともいいえとも言えないくらいには、俺は彼女に比べて人生を俯瞰できていない。
「……他に、思い浮かばなかった」
「金を出す以外の方法、ですか」
「そう。それで、学生ならお金を渡せばついてきてくれると思った」
随分と軽く見られているんですねと口から飛び出そうになったが、まんまと引っかかったのは他でもない自分だ。
でも、これだけは言っておかなくてはと、冷たい水を一口飲んで、彼女の瞳を見つめる。
「別に、金に釣られたわけじゃない」
彼女の視線が揺れた。
「...先週、母が亡くなったの」
黒い瞳に落ちる陰、ゆっくりと濡れていくまつげ。彼女は焦点の合わない眼差しで、しきりに右足の怪我を撫でる。
「母一人子一人で、それなのに実家になんてほとんど帰らなくて、葬儀を終えて休暇から職場に復帰して」
今日は金曜日だ。先週亡くなって葬儀を行って、はじめての週末だったのだということは安易に想像できた。
俺は、人の死が近いところで戦っている。
「それで...仕事を終えた帰り道、どうしてかな、母を、思い出してしまった」
母親を亡くした原因に思い当たることはあった。先週も侵攻があった。小規模ではあったが、亡くなった人がいると、聞いた。
「涙で前が見えなくなったの。それで、躓いちゃった」
ぼんやりとした眼差しで、力なく、それでも笑って見せる。
思わず、その頬に手を伸ばした。
「...笑わなくても、いいです」
「あったかい」
「生きてますから。あなたも、俺も」
彼女の涙は指先で拭えども拭えどもとめどなく溢れる。
手のひらに擦り寄るように彼女が体を任せてきたから、ごく自然に、なんだからたまらなく愛おしくなって、その背中を抱きしめた。
「...声をかけたのが君で、よかった」
*
「それじゃあ、帰ります」
「...うん。本当に…ありがとう」
マンションの玄関先で、彼女は財布を片手に小さく笑う。鼓動を確かめるように胸においた白い手のひらが震えている。
「あまり、無理しないように」
おせっかいとはわかっていたが、そう言うしかなかった。出過ぎたことを言ったなと自覚したところで、彼女は黒い瞳を細めて、そして俺の鼓動も確かめるように、右手を俺の胸に当てた。
「一緒にいてくれて、ありがとう」
彼女の右手を掴む。引き寄せる。
俺はこの年上の女性の、頼りなく揺れる眼差しが、まっすぐに力を持って俺を見ることを望んでいる。
「キスしてもいいですか」
「えっ、」
言うが早いか一瞬重ねた唇に、彼女の耳が赤らんだ。
「こ、れは、追加料金払わないから」
「要りません。全部、金は払わなくていい。その代わり」
彼女の手を握ったまま、赤い耳に唇を添えて、そっと対価を要求する。
「俺は、烏丸京介といいます。あなたの名前を教えて下さい」
ぐしゃぐしゃの髪の毛が頬をくすぐる。
彼女はひたいをぴたりと俺の首筋に押し付けて、くぐもった声で小さく、親がつけた、大切な彼女の名を告げる。
「なまえ、よ」
「じゃあ、なまえさん。また、来週末にあのカフェで」
真っ直ぐに俺だけを見つめて、まっすぐに俺だけを求める彼女が、どうしようもなく、愛しいのだ。
驚いたように顔をあげた彼女の唇に、もう一度かすめるように唇を落として、そして彼女が握り締める財布を取り上げて、部屋の中へ放り投げた。
赤い糸