ふとつま先を見下ろせば、続くコンクリートに無数の小さな木漏れ日が差していた。
 ふと空を見上げようとすれば、街路樹の茂った葉があまりにも青々とつやつやと光っていた。
 視界に落ちた前髪を払おうとしたら、前から夏の予感を含んだ風がスカートを膨らませた。

初恋の話をしよう

 肩から掛けたバッグは、あの頃背伸びをしても絶対に手の届かなかったブランド。
 風に揺れる髪の毛は、あの頃許されることの絶対になかった茶色。
 身に着けたスーツは、あの頃気安く近付けないオーラを持つ大人の服だった。
 変わらない道、それは幾度となく通った道。変わったのは、私だ。
 同窓会の集合場所を学校にしようなんて言ったのは、誰だっただろうか。しかも私はバレー部員ではなくて、ただの、しがない、家庭科部員だった。高校に入ってありがちな恋をして、ありがちな差し入れをありがちな誤魔化しで彼らに捩じ込んでいただけの、ただの部外者だった。
「おー、なまえ早いじゃん」
 校門前に着いたら、懐かしい顔ぶれがいくつか並んでいた。
 声をかけてくれた黒尾くんに笑いかけて、「みんな早いね」と声をかける。本当は、本当は、みんな、遅くなって欲しかった。
 黒尾くんは片目が隠れるほどだった前髪を切って、スーツにネクタイ、どこにでもいそうであまりいない、爽やかで仕事のできそうな風貌で、前と同じように無気力にも見える不思議な笑い方で「久しぶり」と口にした。
「みんなも、久しぶり。ごめんね、部外者なのに呼ばれちゃった」
「なまえ呼びたいって言ったのは、あっち」
 ゲーム会社勤務らしく服装自由なのだろう孤爪くんは、あの頃とほとんど変わらない姿で最新モデルのスマホをいじりながら親指で指差す。
 はいはーいと手を挙げて揺らしたのは、黒尾くんだった。
「俺がなまえも呼ぼうって言ったら、全員賛成って即決だっただろ。満場一致!」

本当に満場一致だったのだろうか。数年ぶりに会ったかつての友人たちを前にしても、心は少し冷えている。
...本当に黒尾が私の名前を挙げたのだろうか。
 そんな姿を思い浮かべてみようとしたけど、思い浮かべることができなくて、思い浮かべることができなかったことに心が波立った。
「んじゃそろそろ行きましょーよ」
 ひときわ背が高く、すらりとした体躯の灰羽くんがスマホを耳に当てながら振り向いた。ジーンズとTシャツが良く似合う。彼は社会人バレーチームに属していると聞いた。
「ほかのメンバーは?」
「他は店集合なんで」
 それならどうしてわざわざ一次待ち合わせを学校にしたのだろうか。
 変わらない校舎に木の陰が落ちる。グラウンドや体育館から聞こえる声、音。教室の窓を揺らす薄汚れたカーテン。
 ひどく感傷的な気分になって、感傷的ついでに初恋の苦さが胸に押し寄せた。

*

 好きだと言ったのは、いつだっただろうか。

 汚れた上履きのつま先が記憶に鮮明なのは、ずっと俯いていたせいだろう。震える指でスカートの裾を弄っていたせいでくちゃくちゃになって、そして、黒尾は「ごめん」とだけ言った。
 そうだ、上履きはもう随分汚れていた。あれは3年生の時だったと思う。
 私はうんとしか言えなかった。「聞いてくれてありがとう」も「これからも差し入れ持っていっていいかな」も「変わらずに接して欲しい」も、全部、何度も心の中で反芻して備えた言葉は、何一つして震える唇から彼に届けられなかった。

*

「何飲む?」
 店についてほかのメンバーと合流して、通された先の座敷に目眩がする。開けられた座布団のとなりは、件の彼だった。
「あ、ビール」
 黒尾くんかジャケットを脱いで、ぐしゃっと畳に放り投げた。あちーと息をするように文句を言って、ネクタイをゆるめ、白いシャツの袖を捲る。その慣れた仕草に、また胸が痛む。

 私と彼との空白の期間に、彼はいろいろなことを身に着けた。私もいろいろなことを身につけた。それなのに、まざまざと目の前に披露された空白は、あまりにも私にとって残酷だった。
「ジャケット、シワになるからハンガーに掛けておくよ」 「サンキュー」
 心のこもっていないような話し方も、普段仕事中にはすっかりなりを潜めているのだろうか、それとも変わらない性格で、先輩や後輩たちの中心で笑っているんだろうか 。
「なまえはさ、今何してるの?」
 夜久くんが届けられた飲み物を各々に配りながら、さりげなく話題を振ってくれた。もしかしたらただの興味本意だったかもしれないし、社交辞令の挨拶だったかもしれない。
「出版社にいるの。レシピ本担当してる」
「おーすげーすね。夢70%くらい叶ってんじゃないですか」
 灰羽くんが悪びれもせずに、ただ素直に感嘆を表に出して笑った。あの頃、私はパティシエを夢見ていた。 そう、女性職人をパティシエールと呼ぶのだと知らなかった頃の話だ。
「夜久くんは、保育士さんだったね」
 すごく向いてるよ、と心の中で笑う。

 放課後の餌付けが恒例化してきたあたりで、突然始まった将来の展望発表。思い思いの未来を描きながらも、小学生中学生と段々と現実を認識していったわたし達は、現実的な範囲の中で大きい夢を口にした。
「...なまえ、どーした?気分悪いか」
 黒尾くんに声をかけられ、ハッとする。
 どうしてだろうか。今日は昔のことばかり思い出す。
「ん、なんかね、私なんかは卒業したあとOB活動とかないし、学校に行かなかったの。今日久しぶりに通学路を歩いたからかな、なんか、感傷的になっちゃって」
「違和感?」
「そうかもしれない。もう、私達の居場所では、ないんだなーって実感して」
「ふーん。そういう感受性って、やっぱなまえさん女なんですね」
 灰羽くんがグラスの中の氷をカラカラとさせながら、身を乗り出して話に入ってくる。後ろから夜久くんに頭を叩かれて、それは差別だろと説教されている。
「やり残してきたことが、たくさんあったように思って」
 ポツリとそんなことを落としたら、彼らの方が静かに、口をつぐんだ。
 私なんかがやり残したことよりもっと大きな、もっと大切なものを、彼らはやり残したのだ。それはまだ、きっと、あの場所に残っているのだ。
「...しんみりさせて、ごめん」
「いや、そういうのも必要だろ」
 黒尾くんが明るく言うけど、目は真剣だった。少し哀しさが揺れるような眼差しで、それでも口元に笑みを浮かべて、そして私の頭をポンポンと2回、撫でた。
 やり残したことがある。あの時まだ最後の試合は終わっていなかった。
──まだ、彼らが戦う舞台はあった。

だから、卒業前にもう一度、告白したかった。

 恐怖でそれから一定の距離を置いて接するようになった臆病な私は、卒業式の日に、彼を諦めた。諦めざるを得なかった。
「あ、なまえ、なんかさ、お菓子の作り方とかわかりやすいレシピ本知らない?」
「初心者向けのレシピ本ならいくつか出してるけど...」
「じゃあ連絡先教えて」
 そういえば、この同窓会のお誘いは、実家への電話で行われた。
 卒業後に私と彼らを結びつけるものは、一つもなかったから。そうするしか方法がなかったのだろう。
「俺から全員に教えとく」
「全員に?」
「なまえも全員の連絡先登録しとけよ」
 いたずらに笑った夜久くんは、例えば今私が園児だったら、飛びついて泣き出したくなるほど、優しい顔をしていた。
 そうか、この人は、ずっと知っていたんだ。

*

 それからまた、あの時と同じように、コンクリートの木陰を歩く。差し込む光が眩しくて目を細めたら、涙が滲んだ。
 二回目の同窓会。今度は、部外者ではない私があの輪に入るのだ。きっとこれからもずっと続いていく世界に。

 ツンツンはねた黒髪を思い出す。覗いた片眼でいたずらに笑う視線を思い出す。挑戦的な唇や歯を食いしばった唇を思い出す。首から流れる汗を、浮き出た腕の筋肉を、伝って飛び散るきれいな汗を、目一杯に伸ばした腕を、踊るようなバッシュの音を、

──こっちを振り向いて、片手を上げるその笑顔を。

「夜久 なまえですか、ゴロ微妙じゃないですか?」
 灰羽くんの腰に蹴りを入れた衛輔を、別の世界のように見守る。
 私の中の黒尾くんは、きっとまだこの学校に残っている。それでも私は、取り戻すことはできない。
 取り戻すことができないからこそ、青春は美しいのだ。

 そう信じれるくらいには大人になった私は、今週夜久衛輔と結婚する。

 目を閉じて浮かぶのは、衛輔と付き合う前のこと。『黒尾に連絡してたら、諦めようと思ってた』
衛輔は私のスマホから、黒尾くんの連絡先だけを、削除したのだった。私はただの一度も、拒否することはなかった。

 瞼を開けてふと横を見上げたら微笑む黒尾くんと目が合って、そしてゆっくり、彼は目を背けた。



それはそれは、とても大切な話を







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