あの子が髪を切った。
肩までの髪はあっけなく短くなった。それを女子たちはボブとかいうけど、残念ながら男から見たらショートとしか見えない。
「うなじ」
前の席に座る、そのあらわになった首筋に息を吹きかけたら、なまえは鬼の形相で振り向いて、そして無言で俺の頬をつねった。
視線を感じてそちらに目をやったら、クラスメイトでもある米屋が残念そうな表情で俺を見ていた。
「……」
窓から入ってくる生ぬるい風が、なまえの髪をさらう。まだ慣れないのか、時々首元をさする指。かすかに漂ってきたシャンプーの匂いに、もしかしたらなまえのかもとか期待して、ほんの少し身を乗り出した。
「出水なにやってんの」
「黒板見えづれーんだよ」
教師に気づかれないように小さな声で囁きあう。なまえは心の底から嫌そうな顔をして、溜息を吐いた。
さっき匂ってきたシャンプーは、こいつのではなかったらしい。
「後でノート見せてあげるから、離れて」
「優しーじゃん」
「近くてうっとうしいよりマシだから」
短くなった毛先が輪郭をくすぐるせいか、なまえは指先で顎のあたりをしきりにひっかいているようだ。
「顎、赤くなってんぜ」
「だったら何。出水には関係ない」
どうしてうまく行かないんだろうか。
ボーダーなんてすごいと羨望の視線を浴びてきた俺に、この子は開口一番に『毎日お疲れさま』と声をかけた。
それからなんとなく気になり初めて、色々とちょっかいを出しているうちに距離が遠くなってしまった。米屋に言わせれば、俺の感情表現は"小学生"らしい。
「なまえは、どうしたらこっち見てくれんの」
「授業に集中して」
一蹴されて、ずるずると机に伏せた。視線は黒板に向いているせいか、はたまたボーダーだからか、教師は俺をちらっと見たあと、なんでもないことのように手元の教科書に目を落とした。
「真面目だなあ」
「...出水もね」
「俺が?」
「戦ってる」
「別に真面目じゃねーよ、天才だし」
思いがけない言葉に、顔が熱くなる。それきり何も言わなくなったなまえは、真剣な様子でノートに何かを書き写している。
結局授業が終わるまで、なまえは俺を振り返らなかった。
「ノート、見せて」
「はい」
書き終わったばかりのノートが机に置かれる。適当にぱらぱらめくったら、きれいな字が並んで、カラフルな図が描かれていて、思わず賛辞が口をついて飛び出した。
「すげー」
「わざわざ教科書見なくても、平均点は取れると思う」
「へー」
「...私じゃなくて、出水がね」
そして席から離れたなまえが、クラスメイトの輪に入って何やら話して、笑う。
あの子が髪を切った。
短くなった髪のおかげで、前よりもなまえの表情が良くわかる。
「ノート返したくねえなー」
小さく呟いた声は誰に聞かれることもなく、風に乗ってどこかへ消えた。
フラストレーション打開策
*
homesicker様よりお題を拝借
出水と米屋がクラスメイトってとこは捏造ですね