その日の訓練室では、ギャラリーの面々が面食らっていた。
目前で不名誉な二つ名の彼女が、相手の隊の二人目を撃破していたためだ。

普段と異なるのは、相手がB級上位であることと、相手が皆仮面のようなものをかぶっていることである。


「ポイントも貰えたし、まあよかったよ」


ランク戦が始まる前、彼女の隊長は対戦相手の面々に頭を下げに伺っていた。

こんな隊と対戦してくださってありがとうございます、そしてこの仮面をつけてくださいませんか、そしたらきっと、想像するより楽しい対戦になると思います、そんなことをにこやかに告げた。

勝利を手にした彼女が属する隊は、勝者の喜びなんてものは一切表に出さない。
特に彼女は、腑に落ちない表情で隊長を見上げていた。


「風間さんに言われて、試験的にやってみたんだよ」


隊長の口から飛び出したその自分の名前は、今どんなトリガーよりも彼女にとっては凶器である。

キスをした、手を握った、告白された。
ボーダー隊員たちが知らないはずの空白の時間は、二人にとって密度が濃いものだった。


「勝ったのか」

「はい、風間さんの言う通りでしたね」


今日は泣き濡れていない彼女が、背後からの声に背中をびくんと震わせる。
にこやかに応対した隊長が、彼女をちらりと見下ろした。
恐る恐るとでも形容される表情で振り向いた先には、最近彼女の視界によく映る彼がいた。


「か、風間さん」

「なんだ」

「なんで、」

「見に来た」

「もうランク戦は、おわりました...」

「見に来たのはなまえだ」


周囲のどよめきが大きくなる。彼はとかく目立つ。羨望の眼差し、畏怖の眼差しを受けながらも、いつもと同じ表情で現れる。


「な、なんで、いや、やっぱり言わないで」


なぜと問うてその返事が寄越されたら、また彼女は紫になるだろう。人間にはなかなかに難しい色である。それを彼女は敏感に察してみせた。


「まあ、いいんじゃないかな。付き合ってるんだし」


隊長の軽はずみな一言に、場が騒然となった。最早パニックである。
彼は変わらぬ表情で、隊長の言葉を肯定した。
しかし、女は目を見張って、そして首をかしげた。焦りも戸惑いも表に出さず口を開く。


「隊長、わたし、風間さんとつきあってないよ」


今度、驚きを表に出したのは彼の方だった。

キスをした、手を握った、告白した、そしてまた、キスをした。そうすればもう、付き合っていると思うであろう。

しかし、彼女の中ではそうではなかった。
キスをしても、手を握っても、告白されても、キスをせがんでも、彼女はまだ彼になんの返事もしていないのだ。

それどころか、そんな風に見たことがなかった、と、いわば保留の体の返事をしている。


「つきあって、ないよ?」


呆気に取られて何も発しない彼らに、彼女はもう一度告げる。ダメ押しである。

彼は、柄にも無く膝から崩れ落ちてしまい衝動に駆られた。それは隊長も同じことだったらしく、額に手を当てて盛大な溜息を吐いた。


「なまえ、それは悪い女の芸当だ」


隊長が間の抜けた声でため息混じりに宣告する。隊長は彼から仮面の提案を受けた際、二人の間に起きた一連の簡単な流れを聞き出していた。
彼女は言われている意味を正確に理解できず、呆然とする彼を見る。


「風間さん?」

「いや、いい。俺が悪かった。すまない」


パーカーのフードを翻して、彼は彼女に背を向けた。ゆっくりと足を進める。状況を整理する時間が必要だ、彼は自らに言い聞かせる。

背後から、屈託の無い明るい声で追い討ちをかけられた。


「また、一緒にご飯食べに行きましょうね」


今度こそ、隊長が膝から崩れ落ちた。

彼は後ろの彼女を振り向いて、嬉しいのか悲しいのかわからないような、複雑な顔をして「ああ」だか「そう」だか「うん」だか、彼に似合わない不思議な言語で返事をした。


*


「なまえ、今日のことだが」

「は、い、」


ボーダー隊員の一日の任務、スケジュールを終了した二人が並んで座るのは、彼の家の、彼のベッドの上だ。

彼は話す合間に彼女の唇に自らの唇を重ねる。彼女はそれを受け入れる。

しつこいようだがその場所はベッドで、彼女は彼が先日わざわざ遠出をして避妊具を購入したことを知らない。


「キスをするのは、嫌ではないのか」

「いやじゃ、ないです。風間さんなら」


口づけの応酬。彼は今すぐにでも押し倒したい気持ちを堪えながら、彼女の口内に舌を差し入れた。


「言ってる意味が分かってるのか」

「ん、う...」


直接頭蓋に響くような音が彼の下半身を制御不能にしていく。

彼女の頭は溶けそうになって、まぶたを閉じたまま、口内を蹂躙する彼の舌に自らの舌を絡ませた。


「、」

「は、あっ」


唇が離れると同時、彼は呆気なく彼女をベッドに組み敷いた。さらりとした髪の毛がシーツに広がる。
彼はその双眸で、真っ直ぐに彼女を見下ろす。


「わかってるのか」


彼のだか彼女のだかわからない唾液に濡れた赤い唇は、誘うように少し開いて、熱い息が零れる。


「わかって、ます。たぶん」

「たぶん?何をわかってるんだ」

「風間さんなら、いいって、思ってる」


言葉の意味を理解すると同時に、彼は彼女の上に倒れ込んだ。脱力したのだ。

キスもする、手も繋ぐ、寄り添う、笑う、泣く、そして彼女は自分とはセックスができると言う。

それでも尚、付き合っていないと言う。理解できない。彼は柔らかな彼女の胸に頬を埋めて、どうしたものかと息を吐く。


「なまえは付き合っていない男とも、セックスができるんだな」

「だって、私」

「なんだ」

「まだ、返事をきちんとしていない」


彼が顔をあげたら、そこには真っ赤な顔の彼女がいた。しきりに唇をぱくぱくとしているのは、恐らく言葉を選ぼうとしているからだろう。

彼とのセックスはできると言った。それならば、彼女が次いで告げるであろう言葉は、おそらく彼が手に入れたかったものである。


「私も、風間さんが好きなんだと、おもいます」


あれから頻繁に彼女の視界に入る彼の姿。頻繁に耳に入る彼の評判、噂話。

それらが偶然ではなく、彼女が無意識に彼の姿を探していたこと、無意識に彼の名前を耳が拾っていたことを知ったのは、つい少し前だった。

彼は変わらずにわざわざ彼女の前に姿を現していたが、それを差し引いても、彼女が彼を目にする機会がずっと増えていたのだ。


「そうか」

「はい」

「わかった」


彼女の視界の中で、彼の耳が見る見るうちに赤く染まっていく。それを不思議な気持ちでぼんやりと見つめる。

彼は一度静かに瞼を落とし、そして彼女に口付けた。

指先は彼女の衣服のボタンを弾き、薄いキャミソールの裾から、彼女の下着を脱がしにかかる。

彼女の、鼻から抜けるような吐息混じりの声に気を良くして唇を離したら、彼のその唇は優しい弧を描いていた。


「いいんだな」

「うん...はい、は、はじめてだけど」


彼女は彼を破顔させるのが殊更上手いようだ。
彼は誰も想像できない表情で、自らの上着を脱ぎ捨てた。


「...ああ」


電気を消したほの暗い室内で、二人はもう一度唇を交わす。




子羊の見る夢



翌日から、彼女のあだ名が『泣き虫悪女』に変わっていることを、二人はまだ知るよしもない。



*
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