「あ、やだ」
まだ二人分のぬくもりが残っているベッドの中から、身支度を整えるなまえの背中を見つめる。
彼女が少し焦った声で俯いたのを見て、つい今までの心地よさから一転、俺はすぐさま体を起こした。
「どうした」
そこには、細い金色のチェーンを指先でつまむ彼女がいる。
何か怪我をしたとかではなかったことに安堵して、彼女の手元をまじまじと見つめる。
「ブレスレットが切れちゃった」
かなしげな八の字の眉、つまらなそうに突き出た唇。
切れた鎖は簡単には元に戻らないのに、彼女は切れたところを二つくっつけて、何やら念じているようだった。
「修理にでも出さない限り、なおらないと思うぞ」
「わかってますー」
ため息一つ、切れてしまったブレスレットをローテーブルの上において、彼女は腕時計をはめる。
誕生日にプレゼントしたその腕時計は彼女の好みとは異なるように見えたが、彼女が想像以上に嬉しそうにしていたのを思い出す。
「似合うな」
「レイジが私に選んだものだからね」
ふふん、と自慢げに胸をそらした彼女の額を軽く小突いて、笑う。
これまで腕時計なんて使ったことがなかった彼女は、プレゼントしてからしばらくの間感覚に慣れず、いつも手首を気にしていた。
「そういえば、俺今日は防衛任務だ」
「うん。ご飯どうする?作っておく?」
「ああ、いや...外で済ませる」
「わかった」
それじゃあ、と立ち上がった彼女は、膝丈のスカート、淡い色のニットを身につけている。
彼女とは大学で知り合った。
防衛任務で度々講義を欠席するせいで、講師に後からもらったプリントでどうしてもわからない箇所があったとき、たまたま隣に座っていた彼女に訊ねたのがきっかけだった。
彼女は少し驚いたような表情を浮かべて、そしてボーダーのボの字も出さず、不明な文言が講師によるミスであったことと、正しい文言を教えてくれた。
「じゃあ、そろそろ行くね」
当然、彼女は今日も大学に行く。少なくも多くもない彼女の友人たちを思い浮かべる。時々講義をサボったり、代返したり、してもらったり、試験前に勉強会をしたり、そんなごく普通のありふれた大学生活を送る彼女だ。
「ああ、気を付けて行けよ」
「子供じゃないんだから...じゃないね、気をつける。何かあったらすぐに避難する。安心して」
彼女は俺が伝えたかったことを正確に汲み取って、ニッコリと笑ってみせた。前髪が揺れて、賢そうな額があらわになる。
「次の休みは、買い物に行こう」
「何か欲しい物があるの?」
「そうだな、ブレスレットでも買うか」
ぱっと明るくなった彼女の表情、そして跳ねるようにベッドに戻ってきたなまえは、俺の額に音を立てて唇を落とした。
「キスマークついちゃった」
いたずらな笑顔。まだ歯も磨いていないために唇を奪いたい衝動を抑えて、彼女の胸元に額を埋める。
柔らかい身体、響く心臓の音。平和とは、こういうことを言うんだろう。
「なあに?甘えたい気分?」
「甘えさせてくれるのか?」
「一限さえなければね!」
視界の中で、彼女が腕時計を見て素っ頓狂な声をあげた。
「やばい、遅れる」
「おう、行ってこい」
「行ってきます!」
一緒に暮らし初めて4ヶ月。4ヶ月の間に様変わりした室内を見渡す。
二人分の荷物、彼女の化粧品、二人分の食器。
ふと、ローテーブルの上を見れば、切れたままのブレスレット。
玉狛に、なおせるようなやつはいなかっただろうか。
ブレスレットを拾い上げ、ベッドから下りてカーテンを引いた。窓から差し込む日差しが目に痛い。眼下には、コンクリートを走る彼女の背中が見える。
「転ぶなよ」
誰にいうともなしに口をついて飛び出したセリフに、自分で笑ってしまう。
今日は出る前に何か料理をしていこう。彼女が好きなものをたくさん、冷蔵庫に詰めていこう。
彼女がそれを見つけた瞬間のリアクションを見ることができないのは残念だが、きっとすぐに連絡をくれるだろう。
手の中のブレスレットが、明かりを反射してキラキラと輝く。そっとティッシュペーパーにくるんで、祈りを込めた。
不幸中の幸いな日々が、これからもずっと続いていくように、と。
ドロップインワンダーランド