なぜこんな日に医務室に人がいないのだろうか、彼女は現実に追いつかない思考で、瞳を瞬かせ、両手で顔を隠したままの体勢で固まった。

彼は、彼女の思考が何も進んでいないことを理解して、ゆっくりと、彼の内にあった物語を口にし始める。


「何度負けても、泣いても、人から笑われても、不名誉なあだ名で呼びつけられても」


彼は自分の指先の平べったい短い爪と、彼女の細い指先の銃型トリガーによって生じたのだろうマメやそれでもきれいな形をした爪を見比べながら、息を吐いた。


「それでも前を見て立ち上がる姿を、いつも見ていた」


彼は口を開きながらも、その実頭の中で自分の行動一つ一つを整理している。
考えれば考えるほど、最後に待っていた感情の名前は、彼の中で思うよりずっと、心の中にきれいに収まった。

最初から、その名前の分だけが空いていたかのように。


「ラウンジで声をかけたのも、模擬戦を頼まれるかもしれないと思ってのことだ。何度でも立ち上がり、まだ何も諦めていないことを知る度に、俺は」


顔を隠す彼女の指先から、細い涙が溢れる。

愛の告白をされた経験は、ごく少ないながらもある彼女だ。それでも彼女は、今までにこんなに真っ直ぐで、誠実で、優しい告白はされたことがなかった。

手が届くはずのない、ヒエラルキーの上層に存在する彼、それが彼女の中の彼への評価であって、彼女は彼を、まるで神話のことのように思う。


「なまえの、一番辛い時、一番嬉しい時、悲しい時、楽しい時を、一番近くで過ごしたいと。そしてできれば、一番幸せな時は、俺が与えられたらいいと思っていたんだ」


彼はそこまでを、言葉を選びながら彼女に届けた。

彼の節くれだった指の、血管の浮き出た男の手が、彼女の表情を隠す手を取る。

広がった視界の中で、彼女は彼の輪郭と自分の輪郭とが、トリガーを起動した時のようにじわじわと変わっていくのを感じた。
故に、握られた手のひらを拒むことはしなかった。


「でも、でも、」


声が震える。掠れる。彼女の指先は、彼によって優しく握られ、乾いた温もりに包まれた指先も小さく震える。


「私みたいな人間が、風間さんの傍にいたら、そしたらきっと」


彼はもう迷わない。彼女が口にしたのは、彼女から彼への拒絶ではない。自分の考えをきちんと発信する性質の彼女は、この時、自分の感情よりも彼の評価の方を優先した心配を口にしたのだ。


「なまえは知らない」

「かざまさん、手を、離して」

「なまえのあのあだ名は確かに一人歩きしているが、その後に続く言葉がある」

「かざまさん、」

「"それでも諦めないから、見ていて力付けられる"」


濡れた瞳を見開いて、彼女が息を飲んだ。そして、押し迫ってくる感情を堪えるように、彼の手に包まれた指先に力が入る。それはちょうど、手を握り返すような格好で。

彼女は知らなかった。確かに全部知らなかった。周囲から見えていた彼女の事も、そして、彼がどれだけ自分のことを見ていたのか、知ろうとしていたのかを。


「てを、離して...」

「絶対に離さない」


彼女は知らなかった。知ろうとしていなかった。彼女は諦めていた。それでも、知ってしまった。

自分を見ていてくれた、自分を想ってくれていた人間が、まさかボーダーにいるとは思っていなかった。自分の所属する隊の人間以外に、彼女をあだ名で呼ばない人間がいたことを、彼女は思いもしなかったのだ。


「私は、風間さんのことをそんなふうに、思ったことはなかったんです」

「...知っている。だが、過去形だ」


彼女の言葉は、もしかしたら一番正直かもしれない。思ったことはない、思うことがない、ではなく、彼女は確かに、思ったことはなかった、と表現した。

彼は、ゆっくりと身をかがめる。彼女の視界が暗くなる。印象的な赤い瞳は瞼に隠され、そして、彼はようやく意味を持った口づけを落とした。


「、風間さんは、キスが好きなんですか」


脈絡もなく、真っ赤な顔の彼女は口にする。濡れたまつげが震えている。

彼は、意地の悪い笑みを口元に浮かべて、そして空いた手の指先で、彼女の目尻の涙を拭った。


「模擬戦の代わりに、なんでもしていいんだろう」


細められた赤い瞳。彼女の内に広がる感情。それでも、されるがままでは余りにもひどい、と無意識に取り戻す彼女の強さ。


「風間さん、」

「なんだ」

「かざま、さん」


彼は、彼女の次の言葉を促すように、顔にかかる黒髪を払う。


「もういちど、キスをして」


聞くが早いか。彼はゆっくり破顔して、はじめて二人ともが望んだキスをした。



ガンナーの涙、アタッカーの福音





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