ボーダー隊員たちはその朝、おぼつかない足取りで歩む不名誉な二つ名の彼女が、頭を何度か壁に打ち付けている現場を目撃した。
歩く、止まる、頭を振る、または奇声をあげる、そして壁に向かい合う、頭を振りかぶる。

奇怪な行動は既にボーダー内で噂になっている。あのあだ名との相乗効果でもある。『泣き虫なまえちゃんご乱心』。そのキャッチーなフレーズが、彼女の心を惑わした張本人の耳に入るのに、さして時間はかからなかった。


放っておいても、彼は別に困らなかった。それどころか、今の状況で彼女と接触を持てば、恐らく彼女はいま聞き及ぶ奇怪行動より更にひどい状況になるのではないか。だとしたら、接触は控えるべきではないか。

彼はそこまで考えたところで、息を吐いた。


「少し出てくる」


その表情は普段とほとんど変化がなかったはずだ。しかし、長い時間を共にしてきた風間隊隊員たちは、彼に滲む決意のような気配を感じ取って、意外な気持ちをきちんと表す、よくわからない返事で彼を見送った。


「...なまえ、」


小さく、本当に小さく。本部の長い廊下を進みながら、呟く。彼は、彼女の姓を知らない。調べていない。彼の子供じみた考えでは、姓を知らなければ名前で呼ぶしかない、ということになる。

素直に姓を知らないこと、名前で呼びたいことを口にしたなら、彼女は今酷い状態になっていなかったかもしれない。ひどい状態の一因である。

一度通り過ぎようとした自動販売機を横目に、ポケットの中から小銭を取り出した。丁度ボトルを一本買えるだけの小銭が入っていたのに、彼は驚いた。


*


彼が冷たいボトルをぶら下げて足を進めるうち、さわさわと落ち着かない空気を感じてそちらに向かえば、そこは大体彼女が通った後だということがわかった。

囁きあう隊員たちに聞き耳を立てれば、その内容は同一だ。『どうした』『おかしい』『真っ青』『病院』。真っ青なのは顔色か壁に打ち付けた頭か、彼は一人ひとりに問いただしたい感情に駆られる。

彼は葛藤しながらざわめきを辿ることで、彼女の行き先を知った。


「なまえ」


昨夜、二人で模擬戦をした訓練室だった。たまたま、ここで今日も訓練をするだけかもしれない。彼は静かに、名前を呼んだ。誰もが呼ぶ冠言葉のない、ごくシンプルな彼女の名を。

目の前で壁に額をくっつけて項垂れていた彼女がゆっくりと顔を彼に向ける、その顔は真っ青だった。


「...気分が悪そうだ。来い」

「近寄らないでください」


声は小さく震えていたのに、そこにははっきりした拒絶があった。

拒絶されて然るべきことをしたのだ。彼は昨夜からずっと、自分の行動に現実味を持っていなかった。故に、彼はこの時ようやく彼女のこころの断片に触れ、後悔した。


「だめ...」


一瞬、彼の反応が遅れた。彼女の声に滲んだ、拒絶に似て非なる色に、彼は俯いた視線をさ迷わせる。

周囲が騒がしい。

彼が見上げた先には、青に朱がさして、紫ともいえる只事ではない顔色の彼女が、体を震わせていた。


「医務室に行くぞ」

「こちらの手続きはやっておくんでどうぞ」


彼女の隊長は朗らかに笑った。左手薬指の細いリングは、隊長が彼らの間柄を邪推するのにふさわしい輝きを持っているように見えた。彼は内心で大きく驚きながら、ギャラリーに気づかれぬよう、そのリングに一瞥をくれてやり、簡単に、大きなどよめきを背に、ぶら下げていたボトルを彼女に押し付け、その体を抱え上げた。

紫色をした彼女はあまりに突然のことに、もうまもなく死に至る気配をおびた酸欠の金魚のようにただ口をぱくぱくさせ、そして静かに、いつもどおり、涙を零す。


*


「...かざまさん」


睡眠不足と過度の緊張のせいだろう、彼女は彼に抱えられたままの体制で、医務室に続く廊下を進む道すがらに意識を手放した。

彼女が重い瞼を開けた先、彼は黒髪を揺らして躊躇いがちに薄い唇を開く。


「悪かった」

「だから、近寄らないでって言ったんです...」


彼女は両手で顔を覆い、また肩を震わせ始めた。医務室のベッドに横たえた彼女の頬に残る涙を、せっかく彼が拭ってやったにも関わらず。


「...嫌だったか」


こんど、彼女は指の隙間からちらりと彼を目だけで見上げた。彼にわからぬよう盗み見たつもりだったが、彼は彼女をまっすぐに見つめていた。

その視線はなにかの感情を孕んでいるように思う。しかし、彼女はその感情が何なのか、皆目見当がつかない。


「……」


彼女に思い当たったのは、深夜のキスと、今日の訓練室からの連れ出しの二つだった。嫌だったか、嫌だったのか。彼女は内心で逡巡する。

たっぷりの沈黙。彼はベッドサイドの椅子に腰を掛けたまま、膝の上の拳に力を込めた。


「俺は、なまえが好きだ」


...と、思う。

戦闘中の彼には似つかわしくない歯切れのなさで、彼女の頬の柔らかさを思い出して解いた拳の指先をじっと見つめた。

そして、歯切れの悪い尻すぼみの低い声でさえ、人気のない医務室にはよく響く。



泣き濡れるガンナーに祝福を






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