コンコン。控え目に叩いたはずのノックなのに、夜の闇にそれは意外と大きく響いてしまった。小さく首をすくめて辺りを見回す。長く続く廊下の壁にぽつんぽつんと等間隔に点在する燭台の灯だけが揺らめいて、あたしはほっと息を吐いた。

重厚な扉のこの部屋の続き部屋は空いている。空いているとは言ってもワンフロアまるごとボスの部屋みたいなものだから、きっとその表現は正しくない。あたしが言いたかったのは空いてるとか空いてないとかじゃなくて、このフロアには普段うるさい右腕だとか剣豪だとか、とかく守護者がいない、ということだ。周囲は最後まで、勿論今でも反対しているらしいけどボスは断固として"自分のプライベート"を開かない。

だから、この部屋の中には本当のボスがいる。


「…ボス、開けて下さい」


ぴっちり閉じられた扉の鍵穴に向かって呼び掛ける。あたしの手にはじわりじわりとその熱さを失っていくハーブティー。しばらくそうしていると扉からカチンと小気味いい音がした。


「…失礼します…」

「どうしたの?」

「いえ、ハーブティーを、」

「違うよ。いつもはタメ口なのにって」


くすくす。笑うボスの表情は穏やかで柔らかい。けれどボスはバスローブ姿で、まだ髪の毛からはポタリポタリと滴が床を汚す。


「…風邪ひくよ」

「じゃあ拭いて」


ハーブティーが乗ったトレイをひったくられたかと思えば代わりにあたしの顔に押しつけられたフワフワのタオル。手持ちぶさたになった手でタオルを握り締めたら、ボスは切なそうに微笑んだ。


「…やっぱ先にハーブティーもらおうかな」


いつの間にかデスクに置かれたトレイの上、白いポットと白いカップが鮮明。あたしはボスの目を一度見て、返事をせずにポットからカップへとハーブティーを注いだ。


「はい」

「ありがとう」


ボスが伸ばしたカップに伸ばした指先。その、爪の間に見つけてしまった黒ずんだ赤。いつもはシャワーで念入りに丁寧に洗うのに、些細な違和感を感じながら視線だけで味を問えば、ボスは柔らかく目を細めて返事をしてくれた。


「…こんなんじゃ、ダメなんだよなぁ」

「ボスは、頑張ってるよ」

「うん、…そう、なんだけどね。やっぱり…自分がたくさんの命を背負ってる、って感覚にまだ慣れない」


この部屋でだけ見せるボスの表情。執務室での表情や仕事中の表情とは勿論、伝え聞いたダメツナの頃の表情とも違う。ただ本当に悔しそうな、歯がゆそうな、悲しそうな、切なそうな、そんな表情。この年齢で背負うべきでない数々の責務や荷物。


「俺は、人を殺すことを割り切ったわけじゃない」


コトリ。空のカップが置かれたデスク。その指先の爪の間は、さっきと変わらず赤が黒ずんでいる。



最愛の人殺しに告ぐ



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