訓練室の冷たい床が、彼女の火照った体を慰める。
まだ整わない呼吸。彼女はその腕で表情を隠す。


「...何度負けても、何度泣いても、それでも何度も立ち上がる。トリオン能力も申し分なく、身体能力も悪くない」


彼は以前口にしたのと同じことを、今度は本人に向かって、努めて優しく投げかけた。

その言葉を聞いた彼女の瞼の下が、さっと赤らむ。その姿をまざまざと見せつけられた彼は、思わず言葉を続けた。


「上の評価だ」


その言葉に、彼女の頬は一層染まる。ほんの少しゆるんだ口元は、彼の記憶にない。彼の記憶の中の彼女の唇は、いつだって真一文字にきつく結ばれていた。


「うれしい」


その言葉に、彼は自惚れた自分を恥じた。目の前の女が、自分の言葉によって歓喜を表に出したと思い込んだことを、内心で大いに恥じた。彼女にとっては彼からの評価より、組織からの評価の方が大切なのだ。

至極まっとうな感情のはずが、性が異なるというだけで、また、彼がA級であることによってもたらされてきた数多の異性からの好意によって、フィルタが掛けられていたのだ。


「立て、なまえ」


数多の好意は、彼にとって無益だった。それなのに、普段の彼なら喜ばしい反応が、よってなぜだか妙に癇に障った。

小首を傾げながらも素直に従い、ゆっくりと立ち上がった彼女の、その細い腕を掴み、引き寄せる。

ほんの数秒合わさった唇は、かさついてヒリヒリと熱い。


「かざ、」


彼は至って冷静な男だ。しかし、彼はまだこの感情に名前をつけていない。ただの衝動に押し負けた、珍しい男の部分が露呈する。

それでも彼は、彼女から視線を逸らさない。


「風間さんも、わたしのこと、わたしを、女を武器にすればいいって、そう思ってるんですか」


彼の視界の中で、彼女の瞳にみるみるうちに薄い膜が張っていく。そしてついに大粒の涙が溢れ始めた。押し殺した声が、言いようもない劣情を誘う。


「違う、いまのは、」


目の前の女は、また唇を真一文字に固く結んで、嗚咽を耐える格好になった。それでも涙は止まらない。彼はどこか冷静な頭で、彼女の身体に蓄えられる水分は、自分たちよりも随分多いのだろうかと、見当違いなことを思った。


「...悪かった。妙な気分になっただけだ。女を武器にしろなんて、思ったことはない」


本心を口にする。深夜の訓練室には、人はいない。ギャラリーがいないからこその芸当でもある。彼はらしくもなく狼狽えながら、彼女の頬に指を伸ばした。これは無意識のことである。

触れた頬の柔らかさ、熱さ、涙の冷たさ、瞳に孕んだ悲哀、すべてが彼の身体の芯を揺らす。


「...泣くな。悪かった」


まるで幼子をあやすように、彼は今までよりも更に注意を払った優しい声で語りかける。

彼女も、偉大な先輩の指示に従うかのように、手の甲で乱暴に涙を拭う。


「なまえ、悪かった」


そして、こんな時に彼はふと思い至る。彼女は彼がキスをしたあと、こう言った。『風間さんも』。『も』というのはつまり、自分以外にも同じことをやった人間がいたのではないだろうか。

理性の範疇外で、拳に力が篭る。

しかし、彼は彼女にそれを問える立場にない。何しろ、彼はこの期に及んでまだこの妙な気分の名前を知らないでいるのだ。


「忘れてくれ」


いつも、彼は横目に彼女の背を見る。負けて、泣いて、立ち上がって、立ち向かっていく背中を、いつからか自然と探した。

それなのに、彼はまだ、彼女を手中に収めるために必要な名前を持っていない。


「は、い」


ようやく零れる涙が少なくなってきたところで、彼女が情けない顔をして、真っ直ぐに彼を見つめた。

彼は、問うことをやめた。今問わなければ今後知る術を持たない可能性もあったが、口にしないことを決めた。

けれど彼女は違う。彼女は、思ったことをきちんと相手に伝える性質を持っている。


「風間さん、私の苗字を知らないでしょう」


ひとり歩きする不名誉なあだ名に、姓は含まれていない。しかし、名前を知ってしまえば多くの人間はわざわざフルネームを調べない。記憶にも残らない。記憶に残るのは、いつだって耳にする機会の多い、インパクトのあるあだ名だけ。

御多分に漏れず、対峙する彼もまた、真実彼女の姓を知らない。


「だから、名前でよぶんですね」


これまでとはまた異なった色が、彼女の瞳の中に滲んだ。

とうとう彼は困り果てて、しゃべらせるまいと、再び、乱暴に彼女の唇を自らの唇で塞いだ。

まだ、最初の口づけの意味すら伝えていないというのに。



迷えるガンナーに愛の手を






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