その日、彼が彼女の前に現れたのは、深夜1時を超えた頃だった。 防衛任務の後だというのに、彼の表情、身体からは、一切の疲労を感じない。
「お疲れさまです」
 彼女はといえば、手元に心理学の教本を開いて彼を待ち続けていた。それは傍から見れば、愛しい恋人を待つかのような一途さだった。
「心理学?」
「はい、えっと、私は人よりもかなり、他者への感情移入が激しいらしくて、それで、」
 彼女が言い終わらないうちに、彼はその真意に気づく。
 彼女はいつだって人を庇ってさっさと戦線離脱する。自分が止めを刺そうとする対象にすら、結局すんでのところで逡巡し、その隙を突かれて返り討ちにあう。
「そうか」
 しかし、この教本に本当に意味があるのだろうか。彼は冴えた頭で考える。もちろん、そんな無粋なことは口に出さない。
「すぐ、模擬戦に入ってもだいじょうぶでしょうか」
「ああ」
 仮想戦闘モードの訓練室に、ふたりきり。彼女は主に散弾銃型のトリガーを扱い、そして、あっけなく25戦25敗を喫した。
「何度か、いい攻撃を受けた」
 珍しい褒め言葉を口にした彼は、訓練室の床にへたりこんでうんうん唸る彼女を見下ろす。
「しかし、やはり途中で迷う」
「だって」
「言い訳か」
「風間さん、表情が変わった」
 何のことだ、彼は眉根を寄せて考える。そしてまた、疑問にも思う。模擬戦でもランク戦でも、彼女が属する隊は負け越している。それでもなお、隊はB級に上がっている。そして、防衛任務での失態は、聞き及んだことがない。
「相手の表情が、しまった、とか、やばい、とか、そういうふうになると、どうしても固まってしまうんです。それで、その相手は、ボーダーの仲間なんです」
 彼女の剥き出しの膝が寒そうだ。25戦終了し、仮想戦闘モードを切ってある訓練室は、生身の体でも快適な空調である。 にも関わらず、彼は彼女の膝に、寒気を覚えた。
剥き出しの膝、ほっそりした指、ふくらんだ胸、そこまで視線をやったところで、彼はようやく頭を振った。
「風間さん?」
「いや、なんでもない」
 彼は彼女の言葉を心中で反芻して、理解する。防衛任務での失態を聞かないのも当然だと思えた。トリオン兵には、表情がない。当然、仲間でもない。
 彼女は意を決したように立ち上がった。日付は彼が来る前に既に変わっている。そして変わった日付は土曜日を示す。
「風間さん、あと5戦だけ、お付き合いいただけませんか」
 日付が変わったこの日、彼は非番だった。もちろん、彼女はそんなことを知らない。 それでも流石に疲れを感じ始めた身体に、彼は少し悩む素振りを見せた。
「なんでもします」
 思いがけず、真っ直ぐに強い声音が彼に向けられた。彼女はまだ泣いていない。ほんの少し、目尻は赤く染まっているが、まだ、ギリギリ泣いていない。
「軽はずみなことは言わない方がいい」
 八の字の彼女の眉は、彼の言葉を理解していないことを物語る。彼は心中で穏やかならぬ溜息を吐いた。
「あと5戦だな」
 その5戦のうちの初戦、表情を絶対に変えないことを決めた彼は、長い時間をかけて彼女に引き分けた。 そしてその後の4戦は言うまでもなく彼女の惨敗で、彼は相手が人間である以上、彼女は勝つことはないという解答を得た。
 床にゴロリと倒れ込んだ彼女が、震える声で呟く。
「なにを、してほしいです、か」
 彼はこんな状態でも真面目な、生真面目で律儀な彼女に、ある意味で嘆息し、そして見えないように微笑んだ。
「……泣くな」
 それでも、泣いても、立ち上がれ。口をついて出そうになったその言葉は、終ぞ彼女に届かない。



蛇に睨まれたガンナー






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