彼女はその日も泣いていた。模擬戦は開始から5秒で撃沈したし、ランク戦ではチームの足を引っ張った上に作戦のさの字も実行していない内にさっさとトリオン供給機関を破壊されたし、そのことも相まって、C級隊員からも、かねてからのあだ名で呼ばれることとなったからだ。
「泣き虫なまえちゃん」
 水がたっぷり入ったボトルは、まだ封を開けていない。ボトルを握り締めたままで大粒の涙を零す彼女は、情けない眼差しで声のした方を振り向いた。
「太刀川さん」
「何度も言うけど、なまえちゃんは戦闘員に向いてないよ」
「しってます。そんなことは、何度も言われなくったって、知ってるの」
 失われていく水分を補うこともせず、彼女は男から視線を外して、ボトルに涙を落としていく。
 男は後ろ手に頭を掻いて、居心地悪そうに眉をしかめた。そして、無言のまま彼女に一歩近づいた。
「それ以上近寄んないでもらえます?」
 男の背後からぞんざいに投げつけられた声は、彼女の属する隊の隊長だった。その隊員たちは皆一様に彼女に優しい。ある意味でそれは当然のことだった。
「甘やかしても、こいつのためになんねえだろ」
「貴方に言われることではありません」
 隊長はにっこりと笑って、簡単に彼女に歩み寄る。そして彼女の腕をとって、目だけで行こうと扉を示した。
「太刀川さん、もしも、きがむいたら、今度模擬戦おねがいします」
 そして俯いて部屋を出ていく。二人が足を進めた先のラウンジは、二人が、正確には彼女が姿を現すと同時に、にわかに静まり返った。
 そこかしこで密やかなやりとりが行われる。C級隊員の制服の一団も、何やら言い合ってはくすくすと笑い、更にはあのあだ名を口にした。
「……他、行くか」
「ううん。いいの、へいき」
 彼女は今年で20歳になる。身長は160cm。トリオン量はボーダー隊員の平均より若干多い。それだけ聞けば、あだ名には似つかわしくない。
 しかしながら彼女は、会ったことのない人間でも、老いも若きも、男女の隔たりなく、あだ名で呼ばれる。きっと多くの人間は、彼女の姓を知らないだろう。
「大学辞めるって聞いたけど」
「うん。訓練……自主トレ、増やしたの。そうしたら時間が足りなくて」
 彼女の隊の隊長は優しい。それはランク戦で彼女が真っ先に戦線を離脱するのは、ほかの隊員を庇ってしまうからだ。 それは自分の属する隊以外の隊員でも同様に。ランク戦であり、ランク戦の間は敵だというにも関わらず、彼女の中では悲しいかな、ボーダーにいる全ての人間が仲間なのだ。
「……あまり、思い詰めるな」
 隊長はそれだけ言い残して、そして明らかに好奇の眼差しが集まるその場で、こともあろうか彼女を置いて席を立った。
「なんか食うもの買ってくるよ」
 彼女の前には、まだ封をあけていないボトルが鎮座する。 彼女の涙はまだ止まらない。
「いつまで泣いているんだ」
 突如降ってきた声に、この時ばかりは彼女の涙が引っ込んだ。涙が引っ込んだら、次は鼻の奥がきゅうっと痛んだ。
「かざまさん」
「泣きたいなら他でやれ」
「風間さん、」
「なんだ」
「模擬戦、してください……」
 さっきまで溢れていた涙のせいで、彼女の瞳は真っ赤になっていた。そして、瞼はまだ濡れそぼり、顎からは小さな水滴が今にも落ちんとしている。 悲しげに揺れる眼差しの中にだって、彼女は僅かな強さを滲ませた。
「……」
「ごめんなさい、いそがしいひとに」
「かまわない」
 ラウンジで聞き耳を立てていた人間が、一様に目を見張って息を呑む気配がした。そしてささやかな応酬が始まる。なぜ?と口々に飛び出すセリフは、その内にゆっくりとまた彼女のこころに傷をつけていく。
「ただし、今日はこれから防衛任務がある。その後だ」
「は、い」
 しかしそれでも、今の状況を一番信じていないのは彼女自身だ。ダメ元だった。太刀川の時と同様に、心からの言葉ではあるが、ほとんど諦めている言葉でもある。
「待ってられるな」
「はい、ずっと待ってます」
 赤い瞳を、人にわからない程度にほんの少しだけ揺らして、その男も彼女から離れていった。 途中、既にトレイを抱えた隊長とすれ違う。男は隊長を一瞥すると、「強くなれ、そうしないとあいつは死ぬ」そう小さな声で叱咤した。
「……悪い、すっかり冷めた」
「わたし、訓練してくる」
「あ?ああ...」
 彼女はようやく、ボトルのキャップを開けた。そして半分ほどを一気に飲み干し、まだ真っ赤な瞳で泣き笑いを浮かべて見せた。
「なんで風間さんはあんな子にかまうんです?」
「……負けても泣いても、何度でも立ち上がる。トリオンは悪くない、身体能力も悪くはない」
「まさかのお気に入りってやつですか」
「上の評価だ。行くぞ菊池原」
 誰も知らなかった。この男が、目だけで彼女を振り向いたことを。この場にいた菊池原と呼ばれた男以外には誰一人として。男の眼差しにほかとは違う好奇が滲んでいたことも、そして、なぜこのA級隊員がこのタイミングでラウンジに現れたのかも。



ガンナーは手中に落ちるか






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