「どちらまで?」低い声が前から狭い車内に響く。バックミラー越しに目が合ったドライバーに目だけで笑ってみせた。当たり前のように俺んちの場所を告げた口。隣に座るなまえちゃんの肩が跳ねる。
それを視界の端に捉えたら、もうあとはその細く薄い肩を抱き寄せるだけだ。


「…そこ、って」

「ん。俺んち」

「なんでよ、飲み直すんじゃないの」

「家のがゆっくりできんだろーが」


ぐうっと押し黙ったなまえちゃんはそれでも、俺が肩を抱き寄せるその腕から逃げようとはしない。
それどころか息を吐いて頭を俺の肩口に預けるものだから、いっつもこんなんだったら楽なのにな、とか思ってしまった。


「…のど乾いたーあ」

「へーへー。来る前に水買っておきましたよっと」


小さなボトルを取り出して手渡す。中ではミネラルウォーターがちゃぷんと音を立て、窓の外を流れるネオンを映して光る。
無言でボトルを受け取った手のひらがキャップを開けて、ぐいと口許で傾けた。


「鏑木さんちって、おつまみあるの?」


離れた唇は水に濡れている。それを無意識に舐めとる舌先を見つめながら、なんでもないような顔をしてなまえちゃんの頭を撫でた。さらさらとした髪の毛が指先を滑って心地いい。


「おー。なまえちゃんが好きなのがわかんなかったから、いろいろテキトーに」

「ふうん」


なあなまえちゃんはさ、ほんとーに俺がただ甘やかしてるだけだと思ってんの?
窓の外を流れる夜景にそんなセリフが出かかって、すんでのところでストップ。
運転手から見ればいい仲に見えるだろう寄り添う俺たちの、その間でなまえちゃんの指が俺の指を遠慮がちに握った。
だっから、そーいうかわいいことすんなよ!


「こちらでよろしいですか?」


告げた住所のアパートの前に、ゆるやかに停車したタクシー。肩から離れた俺の手に、なまえちゃんが視線だけでこっちを見上げた。運転手に少し多めの金を渡して、お釣りはチップに。ぼんやりとその光景を見つめていたなまえちゃんの目前で、思わず手を振った。


「おーい、起きてる?」

「…起きてるわよ、さっさと家に入れて」
「へーへー」


ぞんざいに言い放つものの、それでもなまえちゃんはドライバーへのお礼は忘れずに笑顔でタクシーを降りた。
わがままで意地っ張りなのに世間に対してはしっかりと持ち合わせる礼儀が、心中をざわめかせる。
だって意地っ張りなのもわがままなのも、俺だけなんだろ?
頼むから、俺以外の男をこーいう扱いすんなよな、吐いたため息に取り出した鍵。なまえちゃんが腕を組んで俺の少し後ろに佇む。


「はいどーぞ」

「私、甘いの飲みたあい」

「おー、カクテルいくつか買ってあっから」


わがままをかわいいと思ってしまうのは俺が年だからかもしんねえなあと改めて思った。
躊躇いなく俺んちに入って、勝手も知らねえくせに冷蔵庫へ足を進める背中が、少しのアルコールでたまに揺れる。


「…なまえちゃん、ほんとーにわかんねえの?」

「なにが、」


背後から細い背中を抱き締めて首筋に鼻を埋めた。ほんのりと混ざるのは、甘い香水の香りと汗の匂い。頬をくすぐる髪の毛と、ひくりと跳ねた肩、そして密やかに飛び出した小さな声。


「鏑木、っ」

「あーもう!そーいう声出すなっての!おじさん死んじゃいそう」


上擦ってしまった声と震えた息に、盛りのついたガキかよと自分に突っ込んで、なまえちゃんを抱きしめる腕に力を込めた。


「だって、鏑木さん…」

「…んだよ」

「いつも私のこと、子供扱いするじゃない…」


俯いたその頭に額を押し付けて、うなじにキスを落とす。「ん」と響く高い声が震えて、後ろからなまえちゃんの喉、首筋、鎖骨を指先でなぞる。


「女扱い、していいのかよ」


あまりにも余裕のない声が出てしまった。責めるような、追いつめてしまうような。
躊躇いながらゆっくりと首から俺を振り向いた表情は泣きそうにも見える。


「…鏑木さんは、どうして私に甘いんですか」

「…なまえちゃんがかわいーから」

「…そんなん、じゃ、納得できない…」

「……………なまえちゃんが、好きだから」


見開いた目と、赤く染まる顔に耳、泳いだ視線になまえちゃんの肩を掴んで反転させて、真正面から抱きしめる。
俺の背中にそろそろと回った手のひらの温度があまりにも心地いい。


「…おじさんのくせに」

「そーだな」

「10歳以上離れてるのに」

「まあ、なあ」

「なんで好きなの」

「んー、なんでって、」

「なんで、私は鏑木さんにだけ、こんな風なの」


俺の胸にぎゅうと頬を押し付けて、上目遣いで抗議のまなざしを向けるなまえちゃん。
籠絡してやろうとか、今夜食っちまうよとか、さんざ偉そうに張り巡らせてきたっつーのに。

なんなんだよこの小悪魔ちゃんは。



ブラックワンダー



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