頬に落ちた水の感触で目が覚めた。しかし覚めたはずの目をしっかりと開こうとするも、右目の上に鈍痛が走り叶わない。仕方なく左目だけをゆるゆると持ち上げたが、どうにも視界が霞がかり、時折ちらついてしまうのだから困った。


「…バー…ナ、ビ」

「なまえさん、なまえさん、起きて下さい。僕を抱きしめてください」


視界の霞が薄くなり、横たわる私の傍に座り込む男の姿が飛び込んできた。その美しい翡翠色の瞳からとめどなく流れていくのは涙。溢れるそれが私の頬へと落ちて、私の頬から鼻へ、鼻から反対の頬へ伝いそうして静かに、床に沈んでゆく。


「な、かない、で」

「なまえさんは、ずっと僕の傍にいてくれますよね?なまえさんだけは。ずっと僕だけの」


からからに乾いた喉はひきつったようにままならず、満足に声も出せない。何度も叫び何度も呼び何度も首を絞められた。その弊害とでもいうような気分の悪さも、どうしたことだろう。この泣き顔の前にはあっけなく無力になるのだ。


「だ、い、じょう、ぶ、よ」

「会社にいる時、食事をしている時、撮影やインタビュー中、ヒーローとして活動している時でさえ、なまえさんがいなくなってしまったらと考えてしまうんです」


柔らかな蜂蜜色の髪は乱れ、普段はさらりと着こなしているのであろうライダースジャケットもよれている。呼吸が荒く肩で息をし、私の頭を撫でる手のひらも震えている。

彼は、幼い時分に両親を殺されたのだと言った。そして復讐のために生きているのだとも言った。その告白を聞いたとき、私はすでに理不尽な暴力と狂おしいほどの悲しさによって屈服させられていたのだが、それを聞いて俄かに納得した。
復讐のために、他者との関係性を頑なに拒み続けた成れの果てなのだろうと。出会う他人を自分の内側か外側が判別し、外側は切り捨てる。しかして内側の人間に対するふさわしい接し方を身につけてこなかったが故に、それは依存心となって表れたのだろうと。


「バー、ナビ…ね、離れたり、しない、から……」

「本当ですか?信じてもいいんですか?だってあなたは僕じゃない。僕がどんなにあなたを希っても所詮あなたは他人なんだ。なまえさん、僕を独りにしたいんですか」

「ちが、」


ああそんなに苦しそうな顔をしないで。
際限なく溢れる涙を拭ってやろうと持ち上げた腕だったが、ノースリーブのワンピースから伸びるその腕にいくつも生々しく浮かぶ痣と傷痕に、私の心も軋んでしまう。
意を決して指先を差し出せば、その指先もついぞ一昨日まで爪があったはずの箇所が赤黒く変色した血液に汚されていた。

しかし彼はそんなのは瑣末なことだと言わんばかりに、私の指先に口づけを落として口内へと招く。
爪を剥がされ過敏になった皮膚が悲鳴をあげる。彼は舌先で丹念に皮膚を舐め上げ、うっとりとした表情を浮かべた。


「なまえさんの血液を僕の体に受け入れる時、僕はたまらない気持ちになるんです。所詮他人である僕らが、僅かな時間でも一つになる」


左足に絡まる鎖が重く、はめられた足枷に擦れて足首は赤くなり痣になり血を出しかさぶたになり、そんなことを繰り返していく。
着せられた白いワンピースは血で汚れ、ところどころ破かれて無残な姿を晒している。
立ち上がり自力で歩行するのも困難なほどに疲れきったからだは既に恐怖することすら放棄した。


「ああそうだ、今日の食事はビーフシチューですよ。帰りに焼きたてのパンを買ったんです」


虚ろに再びかすんでゆく視界の奥で、彼が赤い目許を隠そうともせずににっこりと笑った。

私は何をどこで間違えてしまったんだろうか。彼の悲しそうな顔に張り裂けそうな胸を堪えていたのは夢だったのだろうか。
彼を受け止めてあげたい、受け入れてあげたい、支えてあげたいと強く感じていたあの頃の私は、一体どうしてしまったというのだろうか。

今になってみてようやくわかったのは、彼のすべてを受け止めたいなんて考えるべきではなかったということ。

関係性の構築において加減を知らない彼が、私が受け入れて受け止めて、そこにキャパシティの限界があることを理解できるはずがなかったのだ。
そうだ。これをちっぽけな言葉で表すとしたら、「甘え」だ。


「ごめ、なさ…ねむく、て」


視界が真っ白にはじけた。
柔らかい手のひら、美しい瞳、あたたかいからだ、輝く髪、低くとろける声、そのすべてがここにあるというのに、私は彼の心の場所だけ、未だに見つけられずにいる。


「なまえさん、ねえ、僕を愛しているのなら、今すぐに僕を抱きしめて」

「ここ、から…だ して」


落ちた目蓋と、首にかかる圧力。
ああ、この指先には、覚えがあるのに。


イノセント・クリア




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