家に足を踏み入れたら、お酒の空き瓶を踏んで転げました。
「…痛いです」
「おじさんが悪かった」
私をソファに座らせて、血がにじむ膝に消毒液をかけて拭き取る鏑木さんが眉尻を下げて頭を下げる。
ぐるりと見回した室内はそこかしこにお酒の空き瓶や空き缶が転がっていた。
「ねえ、鏑木さん」
「…掃除、しようとは思うんだけどなあ」
やさしく絆創膏を貼ってくれた鏑木さんが、頭を掻いて気まずそうに視線を泳がせる。
それがなんだか無性に寂しくなった。悔しいからそんなこと言ってあげないけど。
「別に」
「ん?」
「いいと思いますよ。家の中って心の中って言うらしいですし」
「…へえ?」
私の隣、救急箱を開けっ放しにしたままでソファに沈んだ鏑木さんが、とても自然な動作で私の肩を抱いてくれる。
そのぬくもりに甘えて鏑木さんに寄りかかったら、肩を抱いていた手のひらが私の頭を撫でてくれた。
「だから、掃除は自分がしたいときに、自分ができるだけ、やればいいんです」
「…じゃあ、すぐにでも掃除しなきゃな」
「…私の話聞いてましたか?」
「おー、だからなまえが怪我すんのは嫌だから、掃除すんだよ」
左隣の鏑木さんの右手が私の頭を抱えて引き寄せる。なすがままになって、まぶたを落とせば期待通り唇に押し当てられた柔らかい感触。ちゅっと音を立てて離れるのは、鏑木さんの薄い唇。
「…鏑木さん、ずるい」
「なまえがあんまりにもやさしーこと言ってくれたからな」
「こんな風にされたら、離れられなくなっちゃう」
「ばあか、離さねえよ」
ぴしっと軽く額をはたかれて、かたちだけぎろりと鏑木さんを睨んではみたけど、鏑木さんはにこにこと笑うだけ。
どうしてか、私はこの人を見ているだけで毒気が抜かれて脱力してしまう。勿論、睨むなんて些細な反抗だってただのかたちで、実際に鏑木さんを拒絶したいなんて一度も考えたことないけど。
「鏑木さん、そういえば部屋は汚いのにゴミは処分してるんですね」
「ああ…、そうか、なるほど」
私の頭を抱えながら鏑木さんは思案顔。顎の髭を左手で撫でながら、「へえ」とか「うん」とか、ひとりでなにやら納得している。
「…なあに?」
「いや、前までは生ゴミもほっといてたんだよ、そういやあなまえと付き合い始めてからだな、ちゃんとゴミ出すようになったの」
鏑木さんが瞳を柔らかく細めて言う。私の髪の毛を梳くように撫でながら、優しく。
「…部屋ん中は、心ん中なんだろ?」
ああもう、この人はなんてずるい人なんだろう!
そんなこと言われて嬉しくないはずがないのに、信じられないはずがないのに。
「こーらなまえ、なんか言えよ。今おじさんちょっと恥ずかしいこと言っちゃったんだから」
「嬉しかったですよ」
ふにゃりとだらしなく緩む口元を隠せずに鏑木さんと向かい合わせになる。そうして鏑木さんが両手で私の頬を包んだ。
キスかな。
「…むっ」
「おっなまえちゃん今期待しただろ」
ぎゅうと両頬を引っ張られて目を開けたら、目の前にはしてやったり顔の鏑木さん。
年甲斐もなくはしゃぐこの人がかわいくて、憎たらしくて、私も負けじと鏑木さんの頬をつまんで引っ張る。
「…かぶらぎひゃんへんなかおー」
「なまえひゃんはかわいー」
ソファの上で、いい年した男女が一組。端から見たら「勝手にやってろ」と放り投げられそうなシチュエーションでも、わたしたちにとってはとても大切な時間。
「……」
「……」
無言になって、どちらからともなく引き寄せあってキスをする。今度は舌を絡ませあって、鏑木さんの鼻から抜ける息が私の首筋にかかる。
「…ほっぺも痛い」
「俺も」
離れた唇。目を合わせて二人笑って、額をくっつけて、また笑った。
棚の上の写真立てをみる度に胸がちりりと痛むけど、少しは自信を持ってもいいんでしょ?
…ねえ、鏑木さん?
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