その日は、ようやっと大きな仕事が片付き、動くことを拒否して棒のようになった足をどうにか交互にコンクリートへ叩きつけるようにして帰宅した。
鍵を差し込み、捻って鉄製のドアを引く。それすらも酷く億劫で、ともすれば立ったまま睡魔に襲われてしまいそうな体に二・三度頭を振って耐える。
完徹二晩に正気を保てるほど理性的でもないし、ハイになれるほど若くもない。
「…運動不足、かも」
一人ごちて扉の内側に足を踏み入れ、ゆっくりと閉まった扉に後ろ手でロックとドアチェーンをかける。むくんだ足を苦しめる華奢なデザインのパンプスを蹴り捨てるように脱いで、半ば体を引きずるようにしてけれども無意識にかスーツのジャケットを脱ぎシャツの裾をパンツから引き出し、ボタンに手をかけてリビングへ入る。
そこで視界に飛び込んできたのは、リビングに敷いてあるラグの上に転がる男だった。
引き締まった筋肉質な体躯をほとんど晒して、ボクサータイプのトランクス一枚では寒いんだろう、大きな体を小さく丸めて寝息を立てている。
点けっぱなしのテレビでは、そつのないアナウンサーが丁度天気を伝えているところだった。
ローテーブルの上にはウォッチと、ビールの空き缶が二つ潰れ、ラグのあちらこちらに投げ捨てられたシャツ・ベスト・スラックス・ベルト・靴下・ハンチング・ネクタイ。
それらを見て、自分の腕に掛けたジャケットと、今にも脱ごうとしているシャツに目線をやった。……同じようなもんか。
ジャケットをソファに放り投げ、そして転がる男、鏑木さんの背中をつま先で蹴った。
「………うう」
眉間に皺を寄せて低く呻く、その光景を見下ろしながらため息を一つ、誰に聞かせるでもなくわざと盛大に吐いてみせる。
脱力してラグの上にへたり込んだ私の目の前で、ラグの上に転がったままの鏑木さんはおもむろに腕を伸ばし、パタパタと何かを探すようにラグを叩き始めた。
「…鏑木さん、風邪ひきますよ」
そうでなくとも筋肉質の人間は重いのだから、疲労がたまりにたまったこの体では彼をベッドルームに運ぶことは至難の業だ。ハンドレッドパワーを分けてほしい、なんて柄にもなく本気で考える。
「…あっ?!」
ぼんやりしていた私の膝を叩く鏑木さんの手のひら、そしてその大きな手のひらが私のシャツを思い切り引き寄せる。
当然反応できるはずもなく、私は鏑木さんの首筋に鼻を打ち付けることとなった。
「…かぶらぎ、さん!」
「…おかえり」
「ただいま帰りました、ってそうじゃなくて」
「悪ぃ、」
離してくれるのかと思って力を抜いた瞬間、器用にも私を片手で抱きかかえながらラグの上で仰向けになった鏑木さんは、両手両腕で私を抱きしめた。
「…っ鏑木、さん!」
「疲れた…眠ぃ」
「…私もですよ!」
「…おう。だから…充電、な?」
甘さを含んだ、寝ぼけているのだろう低く掠れた声。眠そうに細められた瞳。抱きしめる手のひらは私の背中を撫でる。
「…お疲れ様です」
「おう」
へらりと笑った鏑木さんが、右手をそっと私の頬に当てる。親指が唇をなぞる。引き寄せられ抱きしめられたせいで私が鏑木さんに襲いかかっているようにも見える体勢で、鏑木さんは触れるだけのキスを押しつけてきた。
瞬間的に離れた唇の熱を視線で追う。疲れて帰ってきて、熱いシャワーでも浴びてふかふかのベッドで眠ろうと思っていたのに、これでは諦めるしかなさそうだ。
「…んな物欲しそうな顔すんじゃねえよ…」
抱きしめられたかと思えば、反転。次に視界に飛び込んできたのは、天井と鏑木さん。
「…………し、してない!それに疲れてるんでしょ!」
「大丈夫だ、気にすんな」
結局はラグの上で寝るのも、スーツがぐしゃぐしゃになるのもかまわないのだ。鏑木さんに抱かれて眠るのなら。
…でも、さすがに、これは。
「、そこ退いてよおっさん」
「………」
「………」
それきり、パタリと私の上に倒れ込んだ鏑木さんは微動だにしなくなった。眠っているのかと伺えば、その双眸はまっすぐに私を見つめている。
「…俺さあ、なまえが帰ってくんの、待ってたんだぜ。…寝ちまったけど」
「………」
「…な?なまえ……」
…こんな時、つくづくこの男は卑怯だと思う。
わかっている。つまりは、…勝てるはずがないのだ。
「…つかれた」
「…ああ」
「眠いの」
「ん」
「…ベッドまで、運んで」
「…りょーかい」
さっきまで丸まって寝ていたくせに、寝ぼけていたくせに、微かに酒臭いくせに、こんな風に立ち上がってひょいと簡単に私を抱きかかえて歩を進めるんだから、本当に、卑怯だ。
見下ろしたテレビには、昨日ワイルドタイガーが半壊したビルが映っていた。
……しょうがない人。
ピンクに飽和