「お嬢さん」


聞き覚えのある低い声。無意識に止まってしまった足を見下ろして、後ろを振り向かずに踏み出した。


「冷てぇな」


肩にかけたバッグの内ポケットから音楽プレーヤーを取り出してイヤホンをつける。ランダム再生に設定されているから、何が再生されるかはわからない。とりあえず音量を上げて、再生。


夜の静かな街に上げた音量は耳に痛い。それでも背後から聞こえる声と足音よりは遥かにマシだ、あたしは早足で自分のマンションを目指す。

が、気付いた。元はと言えばあたしは逃げるように以前のアパートを飛び出したのだ。いくらセキュリティ万全のマンションとは言え、居場所を知らせるようなことはしたくない。

思考回路は一つの答えに辿り着く。曰く、この近所には彼の息子が住んでいる、と。

真っ直ぐ歩いていた足を、細い路地に向けた。この裏道を通れば彼の部屋まで10分以内。

勿論、背後の男がそんなあたしの簡単な思考を読めないはずがなかった。


「…ツナんちに逃げ込もうってか」


声が、聞こえた。

いつの間にかぴったりと、背中に触れそうな程近くまで来ていた彼は、右手であたしの右耳のイヤホンを絡めとり、そして囁いてみせた。"行けると思うか"そんな挑発すら聞こえてきそうな意地の悪い声色。

彼の手から、奪われたイヤホンを取り返すべく顔を見ないで右手でイヤホンを引っ張る。


「好きだ、」


ぞくり、耳の後ろに時おり触れる感覚。発言の通り動く形に、それが唇だと理解する。


「…最低だと罵られても、俺はお前が好きだ」


返事を返すべきじゃない。
後ろを振り向くべきじゃない。


…彼は、家庭に戻るべきなのだ。


電源を切った音楽プレーヤーから力任せにイヤホンを抜き、地に放る。そして足を踏み出した。


人のものが好きな訳じゃない。
奪いたかった訳じゃない。
ただ、好きなった人が、人のものだった。

なんて、悔しい。


「、泣くなよ」


後ろから視界を覆われた、大きな手のひらは震えている。肩に触れる体も震えている。そして、泣くなと呟いた声も、微かに震えていた。


もしも、最初から彼が人のものだと知っていたら、そうしたらこんな想いもしないで済んだ。


「…卑怯者…っ」

「…ごめんな」

「節操なし…」

「ごめん」

「……バカ…!」

「悪ぃ、」


抱き締められたその胸の中に、あたしの欲しいものが全部詰まっていると思っていた時もあった。あの夜、花火を見ながらもらった指輪は、捨てたのよ。


「…もう、二度と会わない」

「頼むから、」

「好き、好き……だからもう、終わりにしよう、?」


バッグから取り出したシルバーの携帯電話。最新の着信履歴に電話を掛ければ、ワンコールで相手が出た。


「…ツナ、今から行っていいかな」

『…泣いてるの?』


こんな惨めな夜は、あんな惨めな夜は、もう、出逢いたくないの。







線香花火が実るとき

そんなときが二度と来ないなんて、認めたくなかったはずなのに。



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企画「センチメンタリズムサマー」提出








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