親方様は煙草を吸いません。
着崩した黒いスーツに琥珀色の液体が揺れるバカラのグラスがとても似合うというのに、煙草も葉巻も好みません。
以前私がそんなことを少しだけ婉曲に言いまわしたところ、親方様は「酒は百薬の長っつーだろ」と笑い飛ばしたのでした。
なるほど、親方様は煙草なんていうものは百害あって一利なしだと、そう考えておられるのですね。
そもそも、よく考えてみたらボンゴレに関わる方々は喫煙率が恐ろしく低いように思います。
私の知る限りでは獄寺さんしか思い浮かばないのですもの。
あのヴァリアーの面々でさえも、煙草を吸っているところを見たことがありません。
何故でしょう。ヴァリアーのボスなんかは、煙草と酒と女とに塗れて過ごしていそうなものなのだけれど。
「…おーい、戻ってこーい」
は、として顔を上げたら、そこには少しだけ困り顔の、それでいて至極楽しそうな親方様がいらっしゃいました。
どうやら私はどうでもいいことに思案しすぎていたようです。
「こんな日のあたる場所にずっといたら倒れんぞ」
親方様はいつものように着崩したツナギ姿で、日当たりのいいテラスにある品のいいガーデンテーブルに肘をついている私を見下ろしております。
「親方様にご心配をおかけするなんて、恐縮です」
「いい加減ンな堅っ苦しいしゃべりしなくていーぞ」
「いえいえ、そんなわけにはいきません。親方様は私の尊敬する方なのですから」
テラスの近くに背の高い植物は一切なく、その為にこのテラスには容赦なく太陽の光が降り注ぎます。
「尊敬ねぇ」
「尊敬です」
白いガーデンチェアから立ち上がった私。親方様はとても身長の高い方ですから、私が立っても距離感は縮まったとは思えません。
全てにおいて大人の男性。
けれど、私にとってのマフィアの大人というものは、例えば黒いスーツに、バカラのグラスに、琥珀色のお酒に、毛足の長い絨毯に、白いペルシャ猫に、葉巻に、きれいに磨かれた革靴なのでありました。
映画や漫画の見過ぎでしょうか。そうでしょうね。そもそも私がこんな世界に飛び込んだのは、ゴッドファーザーなる映画に傾倒してのことなのですから。
しかして前述のような私のマフィア像はあくまでも想像の上でのものではありますが。
「葉巻があれば完璧なのですけれどね」
「そりゃ俺に言ってんのか」
「私の欲求を満たしてくれるのであれば誰でも」
「風貌だけで言うのであれば、恐らくヴァリアーのボスが一番近いのでしょうけど」と付け足しながらテラスと親方様に背を向けます。
背後から聞こえてきたため息は、聞かなかったことにさせていただきます。
繋がらないもの
きっとこのくらいの距離が丁度いいのでしょうね、
だってまさか私を抱いた男性が、妻子持ちだとは思っていなかったんですもの。