後編

 己の傍らに立っている存在が邪魔だと感じたのは久しぶりのように思え、気付かれない程度に口角を歪めた。特になにをするわけでもなく、ただこちらを伺うだけの存在。これみよがしに音を立て筆を置けば、「お疲れ様です」と作り物の笑顔が向けられる。
「郭嘉様」
 甘えるような仕草も声も、ひどく気に障る。
 外見だけで判断すれば自分好みとも言えるが……考えて、思わず漏れたため息に女が白湯を手渡してくる。
「温くなってしまったかもしれませんが」
 殊勝なことだと内心で嘲笑を浮かべ、「結構だ」と断りの音を口にする。そんな折りだ、予想外の人物が執務室の扉を叩いたのは。
「お主がこのような時間まで執務をしているとは、珍しいこともあるものだな」
「それはこちらの台詞です、と言わせて頂きましょうか。このような時間まで何をなさっておいでなのですか? 丞相」
「――ッ!」
 相手の呼称を口にした途端、平伏の態度を取る女。傍に立つ女に意味深な視線を投げかけた後、曹操は「面白い事が起こっているぞ」とこちらの興味を引く台詞を吐いた。
「面白い事、ですか」
「子飼いの猫が牙を剥いているのは見ていて滑稽よの」
「ほぅ……それは興味深いですな」
 広間に行ってみるがいい。と笑いを含んだ視線を残し、曹操は踵を返す。
「郭嘉様……」
 後を追うべく立ち上がり、陰鬱な空気が立ち込める執務室を後にする。慌てたような気配を纏い女が付いてきたが、振り返ることはしなかった。



「将軍、何をなさっておいでです」
 広間の前には妙な人だかり。時間が時間だというのに暇人ばかりだと苦笑を浮かべ、扉の前に立つ将達を一瞥する。
「よぉ郭嘉」
 気さくに手を上げ名を呼ぶのは夏侯淵だ。すぐ傍に夏侯惇がいることから、曹操を交えて酒盛りをしていたのだと推測出来る。
「郭嘉殿」
「これはこれは張遼殿まで」
 どちらかといえば朝に近い時間帯。張遼は鍛錬の為に起きていたのだろう。他にも数人の文官や女官といった面々が一つの扉の前で立ち止まっているのは異様な光景で、自身の好奇心を満たす。
「皆様お揃いで何をしておいでですか」
「ちっとこれ見ろや」
 促され扉の前に立つ。
「ほう……」
 一枚の紙切れが扉の封をしているのだと気付き、今度ははっきりと口元に笑みを引いた。見慣れた文字に書かれているのはたった一言。その一文が数多の武将を足止めしている事実が面白い。
「これ、白蓮の字だろ?」
「そのようですな」
 自分と良く似た字が白い紙面を汚している。
「一体何をしたいんだか」
 『朝まで開けないでください』
 どうせなら時間の指定をしておけと、貼ってあった紙を引きはがす。
「おい、郭嘉!」
「フン馬鹿馬鹿しい」
 興味に沸く心を静めるよう正反対の言葉を吐いて、封印されていた扉を押し開けた。
「うぉっ!?」
「きゃっ!」
「……」
 開けた途端頬を焼くような熱気が通り過ぎる。
「お、おい……なんだこりゃ」
 パチパチと火鉢の爆ぜる音を響かせながら、広間の奥に汚れた女が存在した。
 床を埋め尽さんばかりに広げられた竹簡。差し替え用か、上の空いている部分に新しく記載した物が置かれている。
「あ、何で開けてんですか。乾くの遅くなるんでしめてくださいよ」
 周囲を取り巻く温度が下がったのを感じとったのか、顔を上げずに白蓮が不満を口にする。纏っている服や白い髪は墨で汚れ、見れたものではない。
「何をしている、馬鹿者が」
「……汚れた箇所、書き直してるの。見て分からない?」
 上げた声に呼応するよう白い顔が上を向く。どうやら汚れ具合からして頭から墨を被ったようだ。何をしたらそんな汚れ方をするのか知りたいところだが、それ以上に白蓮の行動が興味を引いた。
「お、おい白蓮。おめぇ……書き直してるって、これ全部をか?」
「そうですけど……」
 夏侯淵が「あっちぃなぁ」と額に浮かんだ汗を拭いながら、一番近い場所にある書に目を落とす。
「これ、兵法書か?」
「ええ」
 墨で汚れ文字が判別出来なくなった部分を書き直しているのだと白蓮は言う。
「なぁ白蓮。ちぃと聞いてもいいか?」
「私で答えられることでしたら、なんなりと」
 書を書き換える作業に戻りながら答える白蓮に、夏侯淵は困ったように頭を掻き当然の問いを口にした。
「その、なんだ。元となる文が判別出来ないみたいだけどよ……どうやって書き直してるんだ?」
 夏侯淵の言葉に、扉の前にいた一軍が賛同するよう頭を上下させる。
「どうやって、って……普通に、ですけど?」
「いやいや、普通っていうかよ。普通元の文……分かんねぇだろ?」
「あぁ」
 なるほど、と呟く白蓮の声が妙に大きく聞こえたのは、自分が聞きたいと思っている答えが提示される予感を感じとってだろう。
「だって、覚えてますから。別に問題ありませんよ」
「は?」
 鳩が豆鉄砲を食らったような表情をする夏侯淵を見、思いっきり爆笑したい気分に駆られた。ああ、やはりこの女は面白い。
「基本出回っている兵法書の暗記が最低条件ですし。あとは、書庫に収納されてる文献の暗記でしたっけか……」
「お、おい、ちょっとまて。何の話だよ?」
「え?」
 慌てる夏侯淵に、何か変な事を言ったかと白蓮が筆を置き首を傾げる。もう駄目だ、笑いたくてしょうがない。
「郭嘉様の元で仕事をする為の最低条件……って言われましたけど?」
「はぁ!?」
「くっ、ふっ……あはははは!」
「お、おい郭嘉!」
 我慢出来ずに腹を抱える自分に突き刺さる冷たい視線。無理難題を押しつけたにも関わらず、こちらの意図を上回る結果を出した女。やはり、傍にいるのはアレでなくてはならない。
「白蓮、こいつにも手伝ってもらえ」
「えっ!?」
 傍で唖然としていた自称女官の女を部屋の中へ突き出す。
「え、別にいいですよ……。自分の不備は自分で始末しますから」
「遠慮するな。郭奉孝の女官を名乗るのだ、最低限の仕事でも与えてやったらどうだ?」
「か、郭嘉様っ! 私は……」
 媚びなんて安っぽいものは欲しくない。いつだって自分が求めているのは――。
「嘘をつくならば、もっと用意周到にすべきだったな? 張将軍、あとは任せましたぞ」
「了解した」
 こちらの意図を読み取り、詰問にかける為張将軍が女の腕を引く。
「……新しい女官の人じゃ、なかったの?」
「自称、な」
 炎を映し揺れる瞳は見ていて飽きない。どうせ、こちらの本意など知らず空回りしていたのだろう。
「そう……」
 どこか安堵したような表情を浮かべ、白蓮はまた書を書き直す作業に戻った。
「朝までには終わるんだろ」
「当然」
「なら、さっさと終わらせて持ってこい」
「おい、郭嘉。そりゃ言い過ぎってもんじゃ……」
 夏侯淵の言葉を遮るよう、「なら扉締めてくれる?」と白蓮が願い事を口にする。打てば響くような言葉の応酬に満足し開けた扉に手を掛ければ、「良かった」と小さな呟きが聞こえた気がした。



「ふぁー……ねっむ」
 汚れた竹簡の手直しが終わり、湯浴みで汚れを落としたらすでに日が昇っていた。
「あとは、これを持ってって……今度こそ、ねよっと」
 凝り固まった首を回し、執務室の扉を開ける。
「郭嘉ー、ここに置いておくからね……って、まだ寝てるわけ? 人が一生懸命直してたってのに……」
 一言文句を言ってやろうと臥所の扉を蹴り開けた。
「ちょっと郭嘉。頼まれたの置いて……うわっ!?」
 薄布の中から出てきた手に引きずり込まれたのだと気付いたのは、郭嘉の纏う香りを鼻がキャッチしてからだった。
「な、なに!?」
「寝るぞ」
「え、ええ!?」
 予想外の力で抱き込まれ、反射的に郭嘉の背に手を回す。一体何が起きているのかと現状把握に努めたが、睡眠不足の鈍い頭では上手い反論方法が出てこない。
「ちょ、ちょっと郭嘉……」
「……」
 返事の変わりに規則正しい鼓動が鼓膜を揺らし、一気に我慢していた睡魔が襲いかかってくる。
「うー……あとで、おぼえ……て、なさいよ」
 途切れ途切れの恨み言に頭上から笑いが漏れた気がするが、もう知ったことではない。眠いものは眠いのだ……眠らせてくれるというならば、例え郭嘉の腕の中だろうと構わない。あとで凝り固まって体が痛くなればいいのだと僅かに空いていた距離をゼロにし、体をぴったりくっつければほど良い温もりでもう駄目だと思った。



「おい、孟徳」
「なんじゃ」
「勝手に入るのはいくらなんでも……って、おい!」
 沈黙を守り続ける郭嘉の執務室に無断で入り、曹操は居るはずの姿がないことに僅かな好奇心を抱き臥所へ続く扉を押し開けた。
「お、おい! いくらなんでも……っ!」
「おぉ、見てみろ夏侯惇」
 傑作だと笑う曹操の後から、「すまない」という呟きと共に夏侯惇が顔を出す。
「……これは」
 まるで親鳥が雛を護るような格好で二人が眠っている。抱き込まれた白蓮も普段見せないような安心しきった表情で、夏侯惇は思わずため息を漏らした。
「なんだかんだいって、ちゃんと親子なんだな」
「そのようだな」
 一部の者以外には周知されていない二人の関係。偏屈な上司と有能な部下、そんな日常を打ち破るかのような光景に曹操は目元を緩め、今度は音を立てないようにそっと扉を閉めた。
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