気付いていなかったわけじゃない。当然そうなるであろう事も容易に想像できた。だけど、どうでも良かった。僕以外の人間が、どこでどんな人生を送っているかなんて興味もない。僕の邪魔さえしなければ、それでいい。僕が求めるものは純粋な強さだけ。それ以外の他人の事なんて、どうだっていい。心底そう思っていた。確かに、そう思っていた筈だった。


Act.04 


突然現れた異母姉弟がやって来てちょうど1ヶ月が経った頃。珍しく見回りも早く終わり、思ったより早めに帰宅したその時、居間で母親の声が聞こえた。普段ならそんな事をいちいち気にも止めない。家の中に居ても何ら不思議はないのだから。が、その時は違った。明らかに荒ぶっている母親の声。そして誰かの影。だいたいの想像はつくものの、気ままに居間の方へと向かい、姿が見えない程度の距離で足を止めた。

「あなたが此処にいると気分が悪くて仕方ないの。さっさと荷物を纏めて出て行ってちょうだい。だいたい、おかしいと思わない?他人のあなたが堂々とこの家にいるなんて」
「気を悪くされているのは承知のうえですが、私は他人ではありません。きちんとした父の子です」

もちろん、中から聞こえてきた機嫌の悪い母親の声に凛とした声で応えているのは、彼女。僕の姉と名乗る、神崎菜摘、改め雲雀菜摘だ。彼女がこの家に住む事を誰よりも拒んでいたのは当然母親。いつかこんな日が来るだろうと予想はしていた。が、僕にはどうでも良い事だった。

「それでも私とは他人です。私の子どもは恭弥1人。ここは私と旦那と恭弥の家なのよ。それをよくもまぁそんな風に言えるものね。柔軟といえば聞こえはいいかもしれないけど…まぁ仕方のない事かもしれないわね。別れた男の子どもを勝手に生んでるなんて身勝手で図太い神経の持ち主が母親なんだから…ね?」
「…母は関係ありません。そんなに私が気に食わないのなら、早く1人立ち出来るよう心掛けてはおきます」

母親のその言葉に一瞬、ぐっと拳を握り締め、唇を噛み締めた彼女。だがまた直ぐに強気に戻り、母親の言葉に応えていた。どこまでもくだらないその光景を背に、自室へと戻ったものの、不思議と、一瞬だけ垣間見えた、公園で初めて見たあの日の面影を残した彼女の姿が、僕の頭の中にはこびりついていた。

「あ、おはようございます」
「…」

そんな事があった翌日、僕は珍しく寝坊をした。まさか、朝方までほんの一瞬見せただけの、あの日の彼女の姿が頭から離れなかったせいで眠れず、草壁からの電話で起きるなんて、不覚にも程がある。これだから僕に迷惑をかける草食動物は嫌いなんだ。おまけに僕は今、寝坊の原因となった、彼女と鉢合わせの状態だ。

「恭弥くん、朝ご飯は?」

彼女が家に来てからというもの、母親が朝食時に姿を表すことはなくなった。普段から自室で済ます僕と、元から仕事で忙しい父親は彼女が来る前から食卓にはあまり来ることもなかったけど、改めて見ると、母親すらいないその食卓は、妙に殺伐としていて、広く感じた。今までの母親もしかり、こんな息の詰まりそうな空間で、彼女は1人で食事を取っていたのか。それも、多分自炊だろう。ふと、台所の方に目を向ける。するとそこには、美しく飾りつけられた朝食用プレートが4枚。彼女は、自分の分だけでなく、この家に住まう人数分を作っていたのだろうか。まったく、嫌になる。母親に昨日、あそこまで言われたというにも関わらず、この女は一体何を考えているのか。もちろん、母親が彼女に対し、冷たくあたる気持ちもわからなくもない。ましてや彼女は何処か堂々としていて母親の言葉にもたじろぐ事は無かった。が、自分の実の母親の悪口を言われていたんだ。気分を害さないわけがない。それなのに、母親の分まで朝食を作っている訳のわからない行動。強気な態度かと思えば僅かに見せる弱さ。単なる虚勢を張った草食動物かと思っていたけど、この生き物が何ものなのか、何を思っているのか、全くわからない。一体、何を企んでいる?僕の口から自然と溜め息が零れた。

「台所を勝手に使ってごめんなさいね。でも多分ちゃんと作れてると思います。朝食抜くと良くないから、食べてください」
「僕は台所を使うなとか、料理が不味そうだとか、一言もそんな事言った覚えはないんだけど」
「そうですか。じゃあ何の溜息ですか?」

今朝、彼女と顔を合わせた時から気になっていた事があった。

「泣く程悔しかったみたいだね。昨日君がもっと謙虚にしていれば、あそこまで言われる事も無かったと思うんだけど」
「!」

それは、彼女の瞳が赤く腫れていた事。おそらく、昨日一瞬見せた、あの何かを耐えた表情。母親に実の母親の事を言われ、自室へと戻った後、泣き明かしたんだろう。この腫れ具合だと、一晩中…といったところだろうか。

「昨日の事、見てたんですか?」
「見てたとして、何か問題でもある?…一応此処は、僕の家でもあるんだけど」
「問題なんてないですよ。ただ、ちょっと恥ずかしいですね」
「恥ずかしい?」

卑屈に笑い、薄っぺらい表情を貼り付けながら言った彼女の言葉の意味が、僕には理解出来なかった。一体何が恥ずかしいのか。むしろ、見てたなら助けろとか、そう思うのが普通じゃないのか。まぁ彼女の気性からして、そんな事は絶対に口に出さないだろうし、例えそんな事を言われたところで、助ける義理もないけどね。

「確かにもっと謙虚にしていれば良かったのかもしれませんが、私にもプライドがあります。だからこの家に来ることになった時、絶対に泣かないって、そう決めたんです。泣けば悲劇のヒロインぶってるみたいじゃないですか?そういうの嫌いなんです。それなのに、泣いてたのが人に知られて恥ずかしいんです」
「それ、本気で言ってるの?」
「え?」
「だとしたら君は、やっぱりつまらない草食動物と同じだよ。君が此処に居ることと、母親がどんな人間だったかなんて関係ない。確かに謙虚にしていれば言われなかった事だろうけど、誰だって、どんな状況であれ、実の母親をあんな風に言われれば腹を立てるものなんじゃないのかい?辛いなら泣けばいい。憤りを感じるならぶつければいい。今の君は安いプライドを守るために粋がってるいる草食動物と同じだよ」
「…」
「僕には感情を出す事さえ怖がっているようにしか見えないな。君は自分で決めた事さえ守れない。かと言って、安いプライドを捨てる事もできない。結局、本質は草食動物…もしかすると、それ以下かもしれないね。本当に強くなりたいなら、泣く程悔しいと思ってるなら、あれこれ言い訳を並べる前に、思うままにすればいい。…まぁ、僕には関係ない事だけどね」

何時になく自分が饒舌だったとは思うが、勝手に出てきた言葉だけを言い残し、僕は彼女に背を向けた。いい加減、学校に向かわなくては、風紀の仕事も片付かない。それに、僕の言葉に耳を傾けていた彼女の瞳は、まるで公園で最初に彼女を見た面影が浮かび上がったように少し儚げに思え、何故か直視する事に耐えかねたから。

「恭弥くん、ご飯は?」
「…いらない」

振り返らずに、自分でも感じた程の、冷ややかな声でそう返事をし、玄関の扉を開いた。彼女を見ていると、何故か苛々する。まるで感情を押し込め、強くみせるために自分を偽っているように見えて。本当は悔しくて悲しくて仕方ないくせに。本当は弱いくせに。他人にあまり踏みいられたくない気持ちはわからなくもない。だからといって、僕は絶対に自分を偽ったりはしない。それは、血の繋がりがあるにも関わらず、僕にはないものだからなのか、それとも、別の何かがあるからなのだろうか。

「おお!極限に待ちくたびれたぞ!やっと始まったか!」
「お、お兄さん、静かに!」

パイプオルガンの鳴り響く音をも遮る、馬鹿みたく大きな声で草食動物たちが後方で騒ぐ中、静かに開かれた扉に視線を移せば、そこには父親と腕を組む、先ほど見た純白のドレス姿の彼女があった。やっぱり君の本質は、草食動物だ。何もあの頃から変わっていない。

結局は護りたいもののために、何かを犠牲にするのだから。