青々と澄み渡り雲一つ見当たらない。僕の心とはまるで正反対なこの空を僕は憎んだ。唯1人、初めて心から失いたくないと思った人を僕からいとも簡単に奪っていこうとする、この空を。

「雲雀さん…そろそろ…」

控えめに、気遣いながらそう、まるで壊れ物を扱うかのように言った沢田に、普段の僕なら苛立ったんだろうけど、今はそんな気力さえ起こらない。

「うん」

僕は沢田の方へ振り向かず、二度とその美しい瞳で僕を見つめることはない彼女を見つめたまま答えた。二度と僕の名を呼ぶことのない唇、二度と僕に触れることのない指先。どれもこれも。僕の愛した全てはもう二度と僕の元へは帰らない。

「ねぇ、菜摘」

僕が世界で唯1人愛した人は、僕を残してこの世を去ろうとしている。いや、もうすでに此処には居ないのかもしれない。
自宅への帰宅途中、道路へと飛び出した子供を助けようと、その子供の身代わりになった彼女は、早い処置のおかげで、かろうじて心臓は動いているものの、下された診断は脳死。そして彼女は、僕が知らない間に、バンク登録をしていた。つまり、目覚める可能性が限りなく零に近い菜摘の心臓は、数時間後には誰かのものになり、菜摘は本当の死を迎える事になる。今も穏やかに脈を打っているというのに。そんな現実に、僕は菜摘の傍からなかなか離れられずにいた。
バンク登録の件を聞かされたのは、菜摘が事故にあってすぐの事だった。僕に伝えたのは沢田だ。『恭弥は絶対に反対すると思うから』。そう言って、沢田と菜摘の間だけで秘密にされていた事実に、僕は沢田を本気で殺してやろうかとさえ思っていた。菜摘の心臓は菜摘のもの。誰にも渡したくなかったから。現に彼女の心臓は、今も彼女の中で動いているのだから。だけど、沢田の次の言葉で、僕は身を引かざるえなくなった。

「これは、菜摘さんが強く望んだ事なんです。菜摘さんの弟さんが、心臓が弱くて亡くなった事を、雲雀さんも知ってますよね?その時、菜摘さんがどんな思いだったのか。…雲雀さん、あなたならわかる筈です」

その言葉に、僕は何も言えなくなった。菜摘の弟が居なくなって、彼女がどれほど辛かったのか、一番傍で見てきたのは他の誰でもない、僕だから。それでも僕の体は言うことをきかない。頭で理解しようとしても、心がついていかないんだ。こんなに弱い僕は初めてで、自分自身に嫌気がさす。菜摘がいなければ僕は僕ですら存ることができない。
ねぇ菜摘、一度でいいから、僕の願いを聞いて。今すぐ目を覚まして。そうすれば、僕は君を失わずに済む。

「恭弥は掴みどころのない雲みたいだね」

笑いながら僕に言ったその言葉をもう一度聞かせてよ。




(届かないことはわかってる。それでも願わずにはいられない)


2009
10年後的な話のつもり