おやすみなさい。震える声でそう言った女の背中が、今にも消えてしまうような気がして、思わず、その細い腕を掴んだ。


「やめてくれ!」

脳内に響き渡るその声に今にも押し潰されそうになる。またやってしまった。それは夜兎の血に従ったまでで、仕方のないことなの。だけど、いくらそう言いきかせてみても、所詮は言い訳。殺してしまったのは私自身。頭に血が登るように、血を見ると本能が疼き、殺したくないという自分の意思とは裏腹に、一体いくつの命を摘み取ってしまったのだろう。その一つ一つが私の背中に重くのしかかり、それは日を重ねるごとに重みを増していくの。

「神威…今帰ってきたの?」
「うん。菜摘はまだ起きてたんだ?」

誰かを殺してしまった。そんな日は決まって眠りにつくことが困難になっていた私は、夜中だというにも関わらず誰も居ない部屋に、わざわざ足を運んでいた。開いた扉に振り向けば、そこには返り血を浴びたであろう、神威が立っていた。

「団長さん、帰りは明日だって言ってなかった?」
「ハズレだったからね」
「だから早く帰ってきたんだ?」

私の言葉に、薄っぺらい笑みを浮かべて頷いた神威。春雨の任務でどこぞの強い輩と殺り合えるのか、楽しみにして出て行った筈なのに、こんなに早いご帰還とは、相手は神威に一瞬で殺られたのだろう。まぁ、神威が相手なら仕方ないけど。

「そう…無事で何より」
「当たり前だろ?まさか菜摘、俺が殺られるとでも思ってたの?…菜摘の方も上手くいったみたいだね?」
「?」
「だって菜摘、誰かを殺した日は必ず此処にいるし」
「…」
「言ったはずだよ。それでいいって。強い奴が生き残るのは当たり前の事なんだから」
「…うん。わかってる」

確かに神威が言っていることは、正論だとも思う。殺らなければ殺られていたのだから。だけど私は、神威のようには割り切れない。戦いを楽しんだりなんて出来ない。彼のように、そう思えたらどんなに楽だったんだろう。きっと苦しむこともなかった。眠れぬ夜を過ごす事もなかった。

「…もう遅いからそろそろ寝るね。神威も、疲れてるだろうからゆっくり休んでね」
「…」

本当は怖くて眠れない。だけど、同じ道を歩く彼にはそんな弱音を吐くことなんて出来ない。吐いちゃいけない。私に出来る精一杯は、彼の前で涙を見せないことだけ。彼の目に弱い私で写らないことだけ。

「おやすみなさい」
「菜摘」

だから嘘を吐いて彼に背を向けた。けれど次の瞬間、名前を呼ばれて腕を掴まれたと同時に、見えないはずの彼の薄っぺらい笑顔が目の前にあった。

「…神…威?」
「…眠れるの?」
「!」
「眠れるのかって聞いてるんだけど」

ふと、神威の瞳が射抜くような瞳に変わる。まるで私の心の内側全てを、見透かすかのように。私は何も答えることが出来ずにいた。今ここで「眠れるよ」と嘘を吐いたところできっと、彼には見透かされてしまうんだろうと思ったから。私と神威の間に流れた数秒の沈黙。それをを破ったのは、先に口を開いた神威だった。

「…俺の部屋で待ってて」
「え?」

もう一度聞き直すと「少しだけ阿伏兎に用があるから、終わったらすぐに行く」と答えた彼に、目を丸くした。

「もしかして…一緒に寝てくれるの?」
「菜摘、1人じゃ寝れないんだろ?」

そして掴んでいた私の腕を離し今度は彼が私に背を向けた。

「ありがとう神威」

その背中に届くようお礼の言葉を投げかけたんだけれど、神威は何も口にすることはなく、部屋を後にした。代わりに、あの薄っぺらい笑顔を浮かべて。
私は間違っているのかもしれない。それでも、きっと神威が隣にいてくれるのなら、怯えていた夜も、眠れなかった夜も越えていくことが出来る。ふとそう感じた。大好きな彼が傍にいてくれるのならば。


Please take my hands at the white night.
(眠れぬ夜にはこの手をお取り)



2009
多分初の神威くんだった気がする。
title/憂雲